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豊臣秀長の妻 慈雲院 豊臣兄弟!の慶(吉岡里帆)はどんな人物か

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秀長の正室(正妻): 慈雲院とは何をした女性なのか?

慈雲院の出自

NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で吉岡里帆さん演じる慶(ちか)こと慈雲院(じうんいん)は、豊臣秀長仲野太賀)の正室(正妻)とされている女性です。

その出自については、父が賢松院(けんしょういん)殿、母が養春院(ようしゅういん)殿という法名があることが分かっているだけです。

ただ長男・与一郎が1582(天正10)年に10代で亡くなった事実からして、豊臣秀長との結婚時期を推定すると1566(永禄9)年ごろになります。

その頃は秀長の兄・秀吉は織田信長の家来で侍大将、秀長自身も信長の直臣であったことを考えると、慈雲院は織田家直臣の娘であったと推定されるでしょう。

慶(ちか)と言うドラマの名前はどこから来ているのか?

「慈雲院」と言うのは法号であり、正確な名前は高野山奥之院にある五輪塔から「慈雲院芳室紹慶」と伝わっています。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」における吉岡里帆さんの役名は、この法号の一字をとって「慶」としていると考えられます。

慈雲院の年表

慈雲院の生没年は不詳です。また長男・与一郎が1582(天正10)年に亡くなるまでの前半生については、ほとんど明らかになっていません。1566(永禄9)年と1568(永禄11)年に※印をつけているのは、「羽柴秀長の生涯」の記述にもとづく推定時期です。

慈雲院の動向が比較的明らかになるのは、豊臣秀長が1585(天正13)年に大和国が加増されて、大和郡山城に入城したのちのこととなります。

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西暦(和暦)出来事
1566(永禄9)年※秀長と結婚
1568(永禄11)年※長男・与一郎が誕生
1582(天正10)年長男・与一郎が死去
1585(天正13)年9月秀長と共に大和郡山に入部
1586(天正14)年5月秀長の母・天瑞院殿が大和郡山を訪問。共に春日大社・高野山を参詣
1588(天正16)年9月徳川家康・毛利輝元の大和郡山城訪問に伴い進物を贈られる
1589(天正17)年9月秀吉による人質政策の一環として京の聚楽第屋敷に居住
1590年(天正18)年4月秀長の病気看護のために大和郡山に戻る。興福寺に病気回復の祈祷を依頼
1590年(天正18)年5月秀長の母・天瑞院殿とともに春日大社を参詣
1590年(天正18)年9月大和国の各寺社に秀長快復の祈祷を指示し、寺社領を返還
1591年(天正19)年1月養嗣子・秀保が秀長長女の婚姻を交わす
1591年(天正19)年1月22日秀長が死去。秀保が後継
1591年(天正19)年2月大徳寺の長老3人の助命を天瑞院殿ともに秀吉に嘆願
1593(文禄2)年秀保と秀長長女の婚儀が執り行われる
1594(文禄3)年秀保が死去。秀長の家系は断絶

慈雲院は何をした人なのか

慈雲院の後半生を見ると、彼女は「大和大納言家」とも言われた豊臣秀長の一家の家政を代行する立場にあったと考えられます。

例えば徳川家康・毛利輝元など豊臣秀長が「指南(政治や軍事の指導すること)」を行なった大名たちから訪問を受けた時には、秀長に次ぐ順番で進物が贈られたりしていたことがその証拠でしょう。

また慈雲院から見て義理の母にあたる天瑞院殿(大政所)が郡山に訪問した時には、秀長とともに出迎えて領国内にある春日大社や高野山の寺社を参詣しています。

さらに秀長の晩年には、病気快復のために大和国を挙げての祈祷を行うよう依頼し、そのお布施として寺社領の返還を約束するなどまさに「秀長ファミリー」を支えた女性と言えるでしょう。

豊臣秀長の妻 慈雲院 関連記事と参考資料

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豊臣秀長の妻 慈雲院 参考資料

「豊臣秀長の妻 慈雲院 豊臣兄弟!の慶(吉岡里帆)」の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の柴裕之さんと黒田基樹さんは、いずれも2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:柴 裕之
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著:黒田 基樹
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