疋田就長の名前について
疋田就長とは
疋田就長(ひきたなりなが)(生没年不詳)とは2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(仲野太賀)の家臣の1人です。
疋田就長は豊臣秀長の家臣として、外様大名に対しては出雲国の吉川経言(きっかわつねのぶ。のちの吉川広家)や豊後国の大友吉統(おおともよしむね。または大友義統)への「取次(外交や外交事務のこと)」を務めた人物として知られています。
疋田就長の名前
疋田就長は通称を「九兵衛尉(きゅうべえのじょう/きゅうひょうえのじょう)」を名乗っていたことから「疋田九兵衛尉」と呼ばれることもあります。
また実名については1589(天正17)年7月ごろには「就茂」と改名し、「疋田右近大夫就茂(ひきたうこんだゆうなりしげ)」と署名された書状も見つかっています。
なお「右近大夫」とは朝廷の正式な官途名のことであり、1589(天正17)年1月から3月にかけて疋田就長は「従五位下右近大夫」の官位官職を授かった疋田就長は秀長の「諸大夫家臣」の1人です。
秀長の諸大夫家臣たち
豊臣秀長には「諸大夫家臣(しょたいふかしん)」と呼ばれる重臣たちがいます。
「諸大夫家臣」とは公卿である豊臣秀長(従二位権大納言)が宮中に参内するときに御所の中まで随伴することができる家来のことです。
秀長に随伴するほとんどの家来は御所の外までしか警護できないのに対して、「諸大夫家臣」は従五位下の官位を持ち、宮中には昇殿できないものの御所の中に入って警護することが許されていました。
こうした秀長の「諸大夫家臣」には、疋田就長以外にも桑山重晴(従五位下修理大夫)・宇多頼忠(尾藤頼忠)(従五位下下野守)・藤堂高虎(従五位下佐渡守)・杉若無心(従五位下越後守)・羽田正親(従五位下長門守)・福智長通(従五位下三河守)たちがいます。
疋田就長の出自と家族
疋田就長の出自
疋田就長は生没年が不詳であるように、出自は分かっていません。
疋田就長の家族
疋田就長には「半吉」と呼ばれる嫡男と、「源左衛門」と呼ばれる父親の存在を確認することができます。
疋田就長の動向
吉川広家への取次
豊臣秀長は豊臣家を取り巻く様々な外様大名たちの「取次」を担当していました。その担当範囲は広く、越後の上杉景勝以外の外様大名はすべて秀長の担当範囲であったと考えられています。
そんな豊臣秀長の下で疋田就長が担当した外様大名の1つが吉川経言(きっかわつねのぶ。のちの吉川広家)でした。1583(天正11)年に吉川経言が羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に初めて出仕して以来、秀長と疋田就長が吉川広家の取次を務めていたようです。
そのせいか秀長から疋田就長を通じて吉川広家に伝わった伝達事項は効き目が抜群でした。そのことをよく示す興味深いエピソードが「秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治」において紹介されています。
1587(天正15)年に行われていた九州征伐における吉川家の陣中で吉川経言の兄にあたる吉川元長が亡くなる事態が発生。敵軍に味方の異変を悟られることなく、吉川家の家督を元長から経言に引き継がせなければなりません。
家督継承の件について秀長と経言の以前からやりとりはしていましたが、家督継承という重要な決定についても最終的には疋田就長の書状だけで決まったようです。
八日には、経言への取次を担当していた疋田就長が経言に書状を出している(秀長一九一)。蜂須賀家政から吉川家家督継承の件について連絡があったことをうけて、秀長も吉川家継承の実現に尽力することを伝えている。なお経言から書状が送られてきて、それに秀長自身で返信するべきところだったが、ちょうど秀長は「昼寝」しているため、疋田の書状だけで出したことが述べられている。それだけ返信を急いでいたと思われるし、休息中は政務に携わらない、という在り方がうかがわれ、興味深い。その後、経言はとくに支障なく、吉川家の家督を継承したようである。
黒田基樹. 秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治 (講談社現代新書) (p. 55). (Function). Kindle Edition.
大友吉統への取次と国境紛争の調整
疋田就長は吉川経言以外にも、秀長の家臣である福地長通とともに大友吉統への「取次」を行っていたことが知られています。
1588(天正16)年1月に豊後国の大名・大友吉統と豊前国中津を所領としていた黒田官兵衛との間に国境紛争が生じます。
このときから疋田就長は大友吉統への「取次」を行っていたことから、大友吉統と黒田官兵衛の嫡男・黒田長政の両者の言い分を聴取する立場にあったと考えられています。
ちなみにこのときの国境紛争は、豊臣秀吉から直接の裁定が下り、大友家側の主張が認められる形になりました。
九州征伐後の疋田就長の動向
1589(天正17)9月には豊臣秀吉は外交政策の一環として、全国の諸大名の妻を3年間の間、在京させるという政策を発表。このとき豊臣秀長は正室(正妻)の慈雲院(「豊臣兄弟!」の慶にあたる女性)を率先して、京に住まわせます。
しかし疋田就長が「取次」を担当する大友吉統はなかなか妻を京に送り出しません。そこで疋田就長と福地長通は「秀長の妻・慈雲院さえも京に住んでいる」という論法を持ち出して、大友吉統を説得したことが伝わっています。
疋田就長 関連記事と参考文献
疋田就長 関連記事
疋田就長については豊臣秀長の家臣として以下の記事でも言及しています。
疋田就長 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。これらの著作の著者である黒田基樹さんは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
- 黒田基樹 羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人 角川選書
- 黒田基樹 羽柴秀長の生涯: 秀吉を支えた「補佐役」の実像 (1090) (平凡社新書 1090)
- 黒田基樹 秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治 (講談社現代新書 2790)
