豊臣秀吉と「3人の秀勝」
「3人の秀勝」について
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で池松壮亮さん演じる藤吉郎、のちに豊臣秀吉と言われる人物の家族や親類関係を調べていると、「秀勝(ひでかつ)」という実名を持った男性が3人いることに気が付きます。
石松丸(せきしょうまる/いしまつまる)という幼名を持った羽柴秀勝、於次丸(おつぎまる)という幼名を持った羽柴秀勝、小吉(こきち)という仮名(けみょう)を持った豊臣秀勝が、その3人に該当します。
豊臣秀吉と3人の秀勝の関係を表にすると以下の通りになります。
豊臣秀吉と3人の秀勝の関係
| 名前 | 幼名または仮名 | 生年と死没年 | 豊臣秀吉との関係 |
|---|---|---|---|
| 羽柴秀勝 | 石松丸 | ?~1576年 | 実子 |
| 羽柴秀勝 | 於次丸 | 1568~1585年 | 養子 |
| 豊臣秀勝 | 小吉 | 1568~1592年 | 甥 |
1. 羽柴秀勝(石松丸)
羽柴秀勝(石松丸)の出自
石松丸秀勝と呼ばれる羽柴秀勝の父親は羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)で、母親は南殿と呼ばれる女性です。
南殿の出自については詳しいことは分かっておらず、おそらく秀吉に仕えた女房衆の1人で石松丸秀勝を出産したことによって、別妻(側室)の立場に引き上げられたと推定されます。
羽柴秀勝(石松丸)の動向
石松丸秀勝は10才に満たずして亡くなっているため、事績というものがほとんど残されていません。唯一と言える事績が「竹生島奉加帳」に記述されているように、琵琶湖に浮かぶ竹生島へ金品を寄進したことです。
石松丸秀勝は1575(天正3)年もしくは1576(天正4)年ごろに羽柴家の一員として竹生島に銭百疋(銭一貫文のこと。銅銭1,000枚)を寄進したことが記されています。
2. 羽柴秀勝(於次丸)
羽柴秀勝(於次丸)の出自
於次丸秀勝の実父は織田信長で、実母は養観院(ようかんいん)という女性で、織田家の五男でした。
羽柴秀吉と正妻(正室)寧々夫妻の養子になった正確な時期は不明ですが、1580(天正8)年ごろには養子縁組が結ばれていたと考えられます。
羽柴秀勝(於次丸)の動向
1581(天正9)年ごろから中国地方の毛利攻めに忙しい羽柴秀吉に代わって、於次丸秀勝が次第に近江国長浜領の統治代行者あるいは統治者として登場。
また1582(天正10)年に起こった本能寺の変で実父・織田信長が殺害されたのち、織田家重臣で話し合われた「清須会議」で丹波亀山城とその周辺の所領を統治することになります。
1585(天正13)年12月10日に死去。享年18。
3. 豊臣秀勝(小吉)
豊臣秀勝(小吉)の出自
小吉秀勝は、豊臣秀吉・秀長兄弟の姉にあたる日秀尼と三好吉房の次男です。
豊臣秀勝(小吉)の動向
1585(天正13)年までには近江勢田城の城主となっていましたが、同年に於次丸秀勝が亡くなったことに伴い、丹波亀山の所領を引き継ぎ亀山城の城主に。
その後は美濃大柿(大垣)・甲斐国・美濃岐阜と転封を繰り返すことになります。最期は1592(文禄元)年の朝鮮出兵の際に、巨済島で病気に罹り死去。享年24。
秀勝 3人の関連記事と参考文献
秀勝 3人の関連記事
「3人の秀勝」と呼ばれる羽柴秀勝(石松丸)・羽柴秀勝(於次丸)・豊臣秀勝(小吉)については、それぞれ別の記事でも詳しく紹介しています。合わせて参考にしてください。
秀勝 3人の参考文献
今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。これらの著者のうち黒田基樹さんと柴裕之さんは2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 柴裕之「羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書 679)」
- 黒田基樹「羽柴秀長の生涯: 秀吉を支えた「補佐役」の実像」平凡社新書
- 桑田 忠親. 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス
