べらぼう 吉原細見とは 細見嗚呼御江戸・一目千本・籬の花・名華選

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べらぼう 1話で登場する吉原細見(よしわらさいけん)

吉原細見(よしわらさいけん)の改(あらため)となる蔦谷重三郎

NHK大河ドラマ「べらぼう」1話で、蔦谷重三郎は吉原に遊客を取り戻すために、吉原細見(よしわらさいけん)という「吉原ガイドブック」に目を付けます。

そして「べらぼう」2話以降では、蔦谷重三郎は、鱗形屋孫兵衛(片岡愛之助)が板元となっている吉原細見の改(あらため)(編集者責任者)として、客にとって魅力があるコンテンツ作りに奔走します。

吉原細見の読者層

吉原細見は吉原の遊郭で遊ぶための情報誌です。女郎屋の名前・女郎の源氏名・位付け・揚代(女郎たちに支払う料金)などが掲載されたガイドブックであったと言えるでしょう。

人気がある吉原細見は、男性の遊客だけでなく、地方から江戸を観光しにきた観光客や、女性にも読まれていたそうです。

吉原細見の主な入手方法

吉原細見を吉原の「ガイドブック」・「情報誌」と説明しましたが、吉原細見の板元が直接販売する相手は、吉原の女郎屋・揚屋・引手茶屋の関係者です。

女郎屋・揚屋・引手茶屋の関係者がまとまった数の吉原細見を購入し、遊女が贈答用としてお得意様の遊客に無料で吉原細見を手渡していました。

吉原細見が無料(タダ)だった理由

しかし「世の中にタダほど怖いものはない」と言います。

女郎が遊客に「吉原細見」を無料で吉原細見を贈ることは、「また遊びに来てね」という意味であり、露骨な言い方をすると「私のためにもっとお金を落としてほしい」ということになります。

吉原細見を女郎から直接手渡されるような客は、羽振りの良いお大尽で、女郎たちにとっての上客であったことが想像できます。

吉原細見の歴史

蔦屋重三郎が目にした吉原細見には100年の歴史があった

大河ドラマ「べらぼう」では蔦谷重三郎が、1773(安永3)年に、自分が働く茶屋の「蔦屋」の店先で吉原細見をふと目にするという体裁になっています。

吉原細見というスタイルの読み物それ自体は、決して最新の読み物ではありません。吉原細見の歴史を遡ると、「べらぼう」1話の時代から振り返ると、100年ほど前まで遡ることができます。

吉原細見 板元の変遷

現存する吉原細見で最古のものは、1684年から1688年までの貞享年間に出版されていたと言われています。1725年の享保年間の中期以降になると、吉原細見の板元(出版社)には以下の板元が挙げられます。

  • 1725年(享保中期): 鱗形屋孫兵衛・相模屋与兵衛・鶴屋喜右衛門・相模屋平助・三文字屋亦四郎・山本九左衛門
  • 1738年(元文3年): 鱗形屋孫兵衛・山本九左衛門
  • 1758年(宝暦8年): 鱗形屋孫兵衛

鱗形屋の独占事業だった吉原細見

リストを見ると年を経るにつれ吉原細見の板元は減少していったことがわかります。大河ドラマ「べらぼう」が始まる、明和年間や安永年間の初期(1772年~1774年)には、鱗形屋孫兵衛が吉原細見のマーケットを独占している状態でした。

つまり蔦谷重三郎が魅力的な吉原細見を作りたいと思った時に、鱗形屋の改になったことは必然的にそうせざるを得なかったと言えるでしょう。

鱗形屋孫兵衛版から蔦屋重三郎版に変わった吉原細見

鱗形屋の下で吉原細見を編集した蔦屋重三郎

大河ドラマ「べらぼう」が始まったときこそ、吉原細見は鱗形屋孫兵衛の独占状態でした。

蔦屋重三郎は魅力的なコンテンツが詰まった吉原細見を作るために、最初は「フリーランス」としての改(「べらぼう」2話)に、のちに鱗形屋の正社員として改になって(「べらぼう」6話)、吉原細見を編集します。

1775年5月 鱗形屋で偽板の不正が発覚

しかし1775(安永4)年5月に状況が一変します。鱗形屋の手代・徳兵衛が、大坂の板元である柏原屋与左衛門が出版した「大全早引節用集」を「新増節用集」と改題し、偽板を出版してしまいます。

当時、板元たちは重板・類板は禁止されていました。そのため徳兵衛は家財闕所(財産没収)の上、江戸十里四方からの所払いという追放刑が、主人・鱗形屋孫兵衛は監督不行届という咎(とが)で、銭二十貫文の罰金刑が科されました。

ちなみに「べらぼう」では鱗形屋で偽板の不正が発覚し、長谷川平蔵(中村隼人)が容疑者を連行していくという場面が、6話で描写されます。

鱗形屋孫兵衛に320万円(銭二十貫文)の罰金刑

銭二十貫文は二十両に相当します。細かいことは脇に置いておおざっぱに計算すると、現代の金銭感覚では376万円ぐらいということになるでしょう。

鱗形屋が経営が比較的安定した老舗大手出版社であったことを考慮に入れると、376万円相当の罰金を幕府に納めること自体は、経営にとってそれほど大きなダメージではありません。

鱗形屋孫兵衛の信用はガタ落ちに

むしろ老舗の板元が重板・類板という不正を働いたという、商売上の信用を失うダメージの方が、幕府から科された罰金のダメージよりも経営的に比較にならないほど大きかったでしょう。

実際にこの「偽板事件」を境として、鱗形屋は発行する出版物の売上が急降下します。

吉原細見のマーケットに新規参入する蔦屋重三郎

この後、鱗形屋の経営は不安定となり、同じ年の秋に発刊する予定だった吉原細見を出すことができなくなります。

このように1775(安永4)年5月から数ヶ月間、吉原細見のマーケットは一時的に誰もいない空白地帯となります。その隙をついて市場に新規参入したのが、鱗形屋の雇われ編集長に過ぎなかった蔦屋重三郎です。

蔦谷重三郎版の吉原細見

細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)と一目千本(ひとめせんぼん)は鱗形屋孫兵衛版

大河ドラマ「べらぼう」の序盤では、1774(安永3)年春に刊行される吉原細見「細見嗚呼御江戸(さいけんああおえど)」と、同年夏に刊行される遊女評判記「一目千本(ひとめせんぼん)」という、2つにスポットライトが当たります(「べらぼう」第2回第3回)。

しかしこれらはあくまで鱗形屋孫兵衛版の吉原細見と遊女評判記です。

これらの読みものを大量に印刷するための板木は鱗形屋が握っており、この時点で蔦屋重三郎は吉原細見を販売する権利をまだ持っていませんでした。

蔦屋重三郎版 吉原細見のリスト

蔦谷重三郎が吉原細見を出版した、いわば「蔦屋重三郎版 吉原細見」が発行されたのは、1775(安永5)年秋以降です。そのいくつかを挙げてみましょう。

  • 1775(安永5)年秋: 「籬の花(まがきのはな)」
  • 1776(安永6)年春: 「名華選(めいかせん)」
  • 1778(安永8)年秋: 「人来鳥(ひときどり)」

この後、蔦屋重三郎は1783(天明3)年に吉原細見の販売権を独占します。

さらに同年9月には日本橋通油町に店を構えて、念願だった地本問屋「耕書堂(こうしょどう)」の看板をかかげるようになります。

蔦屋重三郎版 吉原細見「籬の花」はなぜヒットしたのか?

蔦屋重三郎版 吉原細見がウケた理由

いくら吉原細見の販売権を独占したからと言っても、そもそも読み手からの評判が悪くて売れなければ、商売になりません。

ではなぜ蔦屋重三郎版の吉原細見はヒットしたのでしょうか?蔦屋重三郎はコンテンツの充実だけを図っていたのでしょうか?

「細見嗚呼御江戸」と「一目千本」

「細見嗚呼御江戸」では当時有名人だった平賀源内(安田顕)に序文を書いてもらいました(べらぼう「第2回」)。

遊女評判記「一目千本」のように遊女を挿花に例えて、有名絵師の北尾重政(橋本淳)に絵を描いてもらいました(べらぼう「第3回」)。

これらの例のように、蔦屋重三郎は雇われ編集長のときからコンテンツの充実は図ってきました。しかし雑誌を編集するときコンテンツの充実を図ることは、並の編集者でも考えられるでしょう。

蔦屋重三郎版 吉原細見が売れた3つの理由

蔦屋重三郎版の吉原細見「籬の花」が、鱗形屋孫兵衛版以前の吉原細見と比べて評判が良かった決定的な理由は、本としての扱いやすさと値段の安さです。そのカラクリはこうなっています。

蔦屋重三郎版 吉原細見が売れた理由 その1 レイアウトの工夫

まず蔦屋重三郎版の吉原細見では、レイアウトが変更されます。吉原内部を各町ごとに上下に分け、女郎屋の並びを記すスタイルに変更します。

蔦屋重三郎版 吉原細見が売れた理由 その2 ページ数を減らす

次に行ったのが丁数(ページ数)を減らすことです。これは遊客や観光客が吉原細見を懐に入れて持ち歩きながら、吉原を巡ることを想定しています。

ちなみに「べらぼう」では、丁数を減らすアイデアは、平賀源内の弟子・小田新之助(井之脇海)が最初に思いつき、蔦屋重三郎に授けたことになっています。

蔦屋重三郎版 吉原細見が売れた理由 その3 読者層の拡大

ページを減らすメリットは、吉原細見に使われる紙の経費を抑えることにつながります。製作の経費が軽ければ、販売するときの値段を低く設定できます。

値段が安いとより多くの読者に対して購買を促すことが可能です。

ちなみにべらぼう 7話では、蔦屋重三郎は従来、四十八文(約2,256円)だった吉原細見を、「籬の花」は半値の二十四文(約1,128円)で売り出します。

ニーズに合わせ読者層を開拓した蔦屋重三郎版 吉原細見

「蔦屋重三郎版 吉原細見はなぜ売れたのか?」という問いの答えは、「読者(消費者)」のニーズに合わせて、読者層を広げることに成功したからということになります。

  • 見やすさ
  • 持ち運びやすさ
  • 値段を安くすることによる読者層の拡大

という本が売れる3つの要素を、蔦屋重三郎が確実におさえていたということになります。

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