豊臣秀長の性格について
豊臣秀長とは
豊臣秀長(とよとみひでなが)(1540~1591年)とは、NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公(仲野太賀)で、天下統一(天下一統)の事業を成し遂げた兄・豊臣秀吉(池松壮亮)を政治・軍事・外交などのあらゆる面からサポートし、自身は大和・紀伊・和泉の3カ国を統治したことで知られています。
Web上での豊臣秀長の人物像
Web上でGoogle検索を使って「豊臣秀長 性格」と調べていると、「温厚な性格であった」と評価されることが多いようです。
ただ秀長が「温厚な性格であった」といういつの時代の誰の評価によるものでしょうか?個人的には秀長の性格に関する典拠を示した記事を見たことがありません。
実は豊臣秀長が温厚な性格の持ち主だったことについては、秀長とほぼ同年代に生きた臨済宗の僧侶・古渓宗陳(こけいそうちん)(1532~1597年)が、秀長葬儀の際に使った引導法語(いんどうほうご)の中で残されています。
今回の記事では古渓宗陳の引導法語に基づき、豊臣秀長が持っていた6つの性格について迫っていきます。
安土桃山時代の古渓宗陳による豊臣秀長の人物像
豊臣秀長の葬儀が行われたときの引導法語
引導法語とは、葬儀の時に故人を仏の世界に導くために僧侶が使う特別な言葉のことを指します。
豊臣秀長は1591年1月21日に大和郡山城で病死。同年1月29日に秀長の葬礼が大和郡山で行われ、京都・大徳寺の古渓宗陳(こけいそうちん)が引導を務めることになりました。
「羽柴秀長の生涯」によると、その葬礼における古渓宗陳の引導法語は、以下の通りであったと伝えています。
そこには「徳は文武を兼ね」と、文武両道の武将であったこと、「道は君臣合す」と、家臣との関係が良好であったこと、「河帯山礪、豊氏の家を興す」と、豊臣氏の忠臣として信任が厚く、豊臣氏を興したこと、「六十余州の英宰を甲す」と、日本国の平定を果たしたこと、「威ありて猛からず、靄然して仁有り」と、権威がありながらも威張らず、穏やかで思いやりがあったこと、「陶朱・倚頓の富を咲倒す」と、古代中国の蓄財家の陶朱・倚頓の二人より財産を蓄えたこと、などがみえている(「蒲庵稿」『茶道文化研究』第三輯)。
黒田基樹. 羽柴秀長の生涯 (平凡社新書 1088) (pp. 231-232). (Function). Kindle Edition.
1. 「徳は文武を兼ね」: 文武両道の武将であった
古渓宗陳によって豊臣秀長は、まず最初に「徳は文武を兼ね」として文武両道の武将であったと評価されています。
1585(天正13)年8月、豊臣秀長は兄・豊臣秀吉から畿内統治の要である大和・紀伊・和泉の3カ国100万石(実質は73万石)の統治を任されます。しかし大和と紀伊は寺社勢力など中世的な権威が跋扈する「難治の国」。
秀長は紀伊国を掌握するために、1588(天正16)年9月に発生した北山一揆では実力行使で領民を従わせる「武」を見せる一方で、本拠地とした大和国の郡山は商業が栄えるように地子(固定資産税)を免除するなど「文」をもって領民をなびかせる別の側面もありました。
豊臣秀長は戦国武将としてまさに文武両道の人物であったと言えるでしょう。
2. 「道は君臣合す」: 家臣との関係が良好であった
「道は君臣合す」と豊臣秀長は家臣との関係が良好であったとされています。
豊臣秀長の家臣たちを見ていると、それぞれが得意分野を持ち、適材適所で能力が発揮されていたと考えることができます。
農政を得意分野として領国内の検地を確実に実行した小堀正次、海上輸送に加えて山間部の木材管理に明るい吉川平助(吉川平介)、戦においては常に先鋒を務めた桑山重晴・藤堂高虎、寺社管理に明るい横浜良慶(横浜一庵)などはその典型例でしょう。
古渓宗陳が「道は君臣合す」と評価したように、主君と家臣の関係が良かったからこそ、それぞれが個性を発揮できたのでしょう。
3. 「河帯山礪、豊氏の家を興す」: 豊臣家の忠臣として家を興す
「河帯山礪、豊氏の家を興す」とは「河をおび山をとぐ」ということで、すなわち「河川を治め、山を切り開くほどの大きな努力をして豊臣の家を興す」という意味です。
豊臣家を興した第一の人物とは豊臣秀長の兄・豊臣秀吉です。しかし大河ドラマ「豊臣兄弟!」の番組ページで紹介されているように秀長は「天下一の補佐役」として政治・軍事・外交などあらゆる面で秀吉をサポートし、日本史上でも類を見ないほど成功した武将であったと言えるでしょう。
4. 「六十余州の英宰を甲す」: 日本国の平定を果たす
「六十余州の英宰を甲す」とは「日本国中の諸大名の筆頭に立つ」ことで、つまり「日本国の平定を果たす」という意味になります。
豊臣秀吉の天下統一の事業において、豊臣秀長は1585(天正13)年5月の四国征伐において全軍の総大将を務め、1586(天正14)年の九州征伐においては秀吉の副将を務めることに。
これらの戦で秀長は長宗我部方や島津方が籠る城を攻略するだけでなく、戦後処理の知行配分も担当。
特に日向国の知行配分において島津家側が違反を繰り返し、「温厚な性格の持ち主」と言われた秀長さえも何度もブチギレするほど交渉は難航したようです。
つまりそれほど日本国の平定に心を砕いていたことでしょう。
5.「威ありて猛からず、靄然して仁有り」: 権威がありながらも威張らず穏やかで思いやりがあった
「威ありて猛からず、靄然して仁有り」とは「い ありて たけからず、あいぜんとして じん あり」と読みます。
意味は「威厳は備えているが、荒々しくはない。おだやかで包み込むような雰囲気があり、そこに仁徳が感じられる」となります。つまり引用した文章で書かれているように、豊臣秀長は「権威がありながらも威張らず穏やかで思いやりがあった」ということです。
この箇所がWeb上でもよく指摘されている、豊臣秀長が温厚で穏やかな性格の持ち主であったことの根拠でしょう。
大友宗滴に見せた思いやりエピソード
豊臣秀長は「権威がありながらも威張らず穏やかで思いやりがあった」というエピソードは、古渓宗陳の引導法語だけでなく、「大友家文書」にも残されています。
九州征伐の前に、島津家に攻め立てられ窮地に立たされていた大友宗滴は、1586(天正14)年4月6日付の書状において、豊臣秀長とこんなやりとりをしています。
(前略)はるはる宗滴手をとられて候て、何事も何事も美濃守如候間、可心安候、内々之儀宗易、公儀之事者宰相存候、御為に悪敷事ハ不可有之候、弥可申談と諸万人ノ中ヲ取組、御心魂、中々悉存候、いつと、この宰相殿を頼申候ハてハにて候間能よく御心得可入候、(後略)
【現代語訳】
はるばる宗滴(そうてき)に手を引かれるようにしておられるとのことですが、何事も何事も美濃守(豊臣秀長のこと)が取り計らってくれるので、どうぞ安心なさってください。
内々のことは宗易(千利休のこと)が、そして公的な事柄については宰相(秀長)が存じており、あなた様にとって不都合なことは決してありません。
さらに、諸々の人々の間を調整しつつ話し合いを進めておりますので、どうかご安心ください。
この宰相殿を頼みとすべき時でありますから、そのあたりをよくご理解なさいますよう、お願い申し上げます。
文章の内容から窮地に陥っていた大友宗滴が安心できるように思いやりをもって接しただけでなく、豊後国にあった大友家の所領が安堵されるようさまざまな調整をしていたことが伺えます。
6. 「陶朱・倚頓の富を咲倒す」: 莫大な財産を蓄えた
「陶朱・倚頓の富を咲倒す」とは「古代中国の蓄財家の陶朱・倚頓の二人より財産を蓄えた」ことであり、豊臣秀長は蓄財家であったと古渓宗陳は指摘しています。
実際に豊臣秀長は1591(天正19)年に病死した際、大和郡山の城内には金と銀がうなるほど蓄えられていたと現在にまで伝わっています。
(豊臣秀長が亡くなった直後の)当時郡山城中には金子五万六千枚余、銀子は二間四方の部屋に棟までギッチリ積み上げられていたということから、その財力ははかりしれないほど厖大なものであった。
城内に金子だけで56,000枚、銀と銅銭に至ってはただちに数えることができないほど蓄えられていたのは、「奈良借(奈良貸し)」と言われた、秀長が大和国で行っていた政策金融の成果であったかもしれません。
「奈良借」は朝鮮出兵の戦費を捻出するための高利貸しであったという否定的な説がある一方で、大和郡山の城下町を栄えさせるための「徳政」つきの町衆への融資だったという肯定的な説もあります。
いずれにせよ古渓宗陳の引導法語にあった「秀長は蓄財家」であったという点は事実に基づく指摘であったと言えるでしょう。
豊臣秀長 性格 関連記事と参考文献
豊臣秀長 性格 関連記事
豊臣秀長の性格がわかるようなエピソードについては下記の記事での言及しています。合わせて参考にしてください。
豊臣秀長 性格 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。これらの著作の著者のうち、柴裕之さんと黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
- 柴裕之(編著)豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 黒田基樹 秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治 (講談社現代新書 2790)
- 河内正芳 図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石 戎光祥出版
