豊臣秀次の側室はなぜこんなに多いのか?
豊臣秀次とその妻たちについて
豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1564~1595年)とは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で登場する豊臣秀吉(池松壮亮)・豊臣秀長(仲野太賀)兄弟の甥で、とも(宮澤エマ)にあたる瑞竜院殿日秀尼の長男です。
その豊臣秀次には若政所と一の台といった2人の正室の他に、最上義光の娘として知られている駒姫(おいまの御方)など30人近い側室がいたことで知られています。
豊臣秀次は女好きだったのか?
現代的な感覚からすると、「2人の正室に30人近い側室」と聞くと豊臣秀次は「女好きだったのか?」というイメージが湧くかもしれません。
「単なる女好き」と見るか「子を多くもうけるための武将の嗜み」と見るかは見解の別れるところですが、秀次は叔父・豊臣秀吉から「女遊びは控えよ」と記された訓戒を与えられたことは確かなようです。
秀吉から秀次への訓戒状
1591(天正19)年1月に秀吉の弟・豊臣秀長が病死し、同年9月には秀吉と淀君の間にできた鶴松も死去。
この頃の秀吉は豊臣家の家督を秀次に譲ろうとしていて、秀次の官位は同年の11月から12月末にかけて、それまでの権中納言から権大納言を経て、内大臣・関白まで一気に昇進します。
そこで秀吉は内大臣・関白を任せることに決めた秀次に対して、12月20日の日付で5ヶ条から成る訓戒状を発行。「豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇」によるとその訓戒状は「本願寺文書」と「南部晋氏所蔵文書」の写しとして残っていると言います。
訓戒状の第5条「女遊びは控えよ」
秀吉が秀次に与えた訓戒状には第1条として「国が平和であっても武具兵糧など怠りなく備えておくべし」と天下人の後継者を諭すような文章がある一方で、第5条には「私生活の過ごし方」に関する記述があります。
ちやのゆ・たもののたか・めくるひにすき候事、秀吉まねこれあるましき事、たたしちやのゆハなくさみにて候条、さいさいちやのゆをいたし、人をよひ候事ハくるしからす候、又たかハとりたか・うつらたかあいあいにしかるへく候、つかひおんなの事ハ屋敷のうちにをき、五人成とも十人なりともくるしからす候、そとにてみたれかましく女くるひ・たもののたか・ちやのゆにて秀吉ことくにいたらぬもののかたへ一せつまかり出候ぎ、むようたるへき事、
小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) 196ページ
【現代語訳】
茶の湯や鷹狩、女遊びなどに夢中になっていることについて、秀吉のまねをしないように。ただ、茶の湯は慰みごと(気分転換)であるから、たびたび茶の湯をしたり、人を招いたりすること自体は差し支えない。
また、鷹については、鷹狩りでも移り鷹でも、どちらもそれ相応に行うべきである。
召使いの女性のことは、屋敷の中に置いておくのであれば、五人であろうと十人であろうと問題はない。
しかし、外でだらしなく振る舞う女遊びや、派手な鷹狩り、茶の湯などをして、秀吉のように分別のない者たちの仲間に入ってしまうようなことは、決してしてはならない。
第5条の冒頭で「女遊びなどに夢中になっている」という表現があります。
これが30人近い大勢の側室を持ったことを指しているのか、それとも秀次には正室・側室となった女性たち以外に男女関係があったことを指しているのかは分かりません。
どちらにせよ秀吉が秀次に対して「女遊びは控えよ」と書面による指示が出ていたことは確かです。
ただ「女好き」として知られ、かつそのことを自認している豊臣秀吉から出されたことについて、果たしてどこまで説得力はあったのかどうかという問題は残りますが。
豊臣秀次の正室・側室一覧表
豊臣秀次の正室(2人)
当時の慣習として上級武士が複数の妻を持つことは当たり前で、正妻(正室)1人に複数の別妻(側室)がいるという構成が一般的でした。
しかし豊臣秀次の場合、若政所(わかまんどころ)と一の台(いちのだい)という2人の正妻(正室)がいたようです。
前者の若政所との結婚は羽柴家(当時)と池田家の政治的つながりを強固にするためであり、一の台との結婚は実家が右大臣家という高位の家であったことから、正妻(正室)は2人いたと考えられています。
| 番号 | 名前 | 出自 | 年齢 |
|---|---|---|---|
| 1 | 若政所 | 池田恒興 息女 | (不明) |
| 2 | 一の台 | 菊亭晴季 | 34 |
なお年齢は1595(文禄4)年7月15日の「豊臣秀次切腹事件」ののちに、秀吉の命令によって秀次の妻子ら39人が京・三条河原で処刑された事件が発生したときの年齢です。
秀次の2名の正室のうち若政所は処刑を免れ三河国に送られたものの、一の台は難を免れることができず処刑されました。
豊臣秀次の側室(29人)
豊臣秀次の別妻(側室)の名前や出自については、「信長公記」の著者である太田牛一が記した「太閤さま軍記のうち(大かうさまくんきのうち)」で記述されています。
| 番号 | 名前 | 出自 | 年齢 |
|---|---|---|---|
| 1 | おちやう | 美濃国 竹中与右衛門 息女 | 18 |
| 2 | おたつ | 尾張国 山口少雲 息女 | 19 |
| 3 | おさこ | 北野松梅院 息女 | 19 |
| 4 | 中納言 | 摂津国 小浜殿 息女 | 34 |
| 5 | おつまの御方 | 四条殿 御息女 | 17 |
| 6 | おいまの御方 (駒姫) | 奥州最上殿(最上義光) 息女 | 19 |
| 7 | おあぜち | 秋庭殿 息女 | 31 |
| 8 | おあこ | 美濃国 日比野下野 息女 | 22 |
| 9 | おくに | 尾張国 大島新左衛門 息女 | 22 |
| 10 | およめ | 尾張国 堀田次郎左衛門 息女 | 22 |
| 11 | おさな | 美濃国 武藤長門 息女 | 16 |
| 12 | おきく | 摂津国 伊丹兵庫頭 息女 | 16 |
| 13 | おまさ | 斎藤吉兵衛 息女 | 16 |
| 14 | おあひ | 京衆 古川主膳 息女 | 24 |
| 15 | お竹 | 捨て子 | (不明) |
| 16 | おみや | 一の台の御むすめ | 13 |
| 17 | 左衛門のこう | 河内、岡本彦三郎 息女 | 38 |
| 18 | 右衛門のかう | 村善右衛門 息女 | 35 |
| 19 | おみや | 近江国 高橋むすめ | 13 |
| 20 | ひがし殿 | 美濃国 ふしん女房 | 61 |
| 21 | こせうこせう | 備前衆 本郷主膳女房の姪 | 24 |
| 22 | おなあ | 美濃国 坪内三右衛門 息女 | 19 |
| 23 | おふぢ | 京衆 大草三河むすめ | 21 |
| 24 | おきみ | 近江衆 | 34 |
| 25 | おとら | 上賀茂 岡本美濃 息女 | 24 |
| 26 | おここ | 和泉の淡輪 息女 | 21 |
| 27 | おこほ | 近江 鯰江才助 むすめ | 19 |
| 28 | せうせう | 越前衆 | (不明) |
| 29 | おこちや | 最上衆 | (不明) |
なお年齢は1595(文禄4)年7月15日の「豊臣秀次切腹事件」ののちに、秀次の妻子ら39人が京・三条河原で処刑された事件が発生したときの年齢です。
ここに挙げた女性は「豊臣秀次切腹事件」に連座したという形で全員が処刑されました。
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- 豊臣秀次 年表 誕生から「豊臣秀次切腹事件」に至るまで
- 若政所 豊臣秀次の正室 池田恒興の娘 秀次切腹事件の処刑を免れる
- 一の台 豊臣秀次の正室 菊亭晴季の娘 秀次切腹事件で処刑される
- 豊臣秀次 側室 駒姫(おいまの方・最上義光娘)など29人のリスト
豊臣秀次 妻 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」において時代考証を担当されています。
