豊臣秀長の長女「秀保の妻」の名前と出自について
豊臣秀長の長女の名前は不明
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(仲野太賀)は、側室(別妻)である摂取院光秀(せっしゅいんこうしゅう)との間に実子となる女子を1人もうけています。
この女の子は秀長にとって長女ですが、名前は伝わっていません。のちに秀長の後継者である豊臣秀保の妻になることから、一般的に「秀保の妻」と呼ばれています。
「秀保の妻」の出自
「秀保の妻」は上述したように父が豊臣秀長であり、母は摂取院光秀で、1587(天正15)年に誕生。母方の祖父は筒井家の旧臣だった秋篠伝左衛門尉(あきしのでんざえもんじょう)です。
秀長が1585(天正13)年に筒井家に代わって大和国を領国としたときから、伝左衛門尉と摂取院光秀は秀長に仕えるようになったと考えられています。
秀長の女房衆の1人として仕えていた摂取院光秀は妾となり、34才のときに「秀保の妻」となる娘を出産することになりました。
この出産によって摂取院光秀は妾の立場から、側室(別妻)の立場に引き上げられたと推定されます。
「秀保の妻」とはどんな人で何をした人物なのか
1589(天正18)年6月 「秀保の妻」に関する記述が登場
「多聞院日記」によると1589(天正18)年6月7日、豊臣秀長は紀伊熊野社の如意輪堂に奉納する鰐口(わにぐち。神社やお寺の軒先に吊るされた金属製の仏具)に刻む文章を、興福寺の多聞院英俊に指示。
その鰐口の寄進者は、豊臣秀吉・豊臣秀長・天瑞院殿(大政所)・慈雲院・「秀保の妻」・豊臣秀保・鶴松(秀吉の嫡男)の7名となっています。
また1591(天正19)年2月には秀保・慈雲院・秀保の妻が、大和郡山から羽田正親・藤堂高虎・杉若無心の重臣たちを伴って上洛していることも確認されています。
豊臣秀保の妻に
「秀保の妻」と通称されていることから、彼女は豊臣秀長の養嗣子である豊臣秀保と結婚します。
秀長の死の直前である1591(天正19)年1月に秀保との婚約を交わし、1594(文禄3)年に大和郡山城で正式な婚儀が執り行われています。
この婚儀には豊臣秀次や、のちに小早川秀秋と呼ばれることになる豊臣秀俊なども出席していました。
秀保死後の動向について
1595(文禄4)年、夫である豊臣秀保が病気のために亡くなります。このとき「秀保の妻」は数えの年齢でわずか9才。満年齢で計算すると8才になりますので、「秀保の妻」と秀保との間に子はいなかったと考える方が妥当でしょう。
ただし、秀保死後に「秀保の妻」の動向を後世に伝える資料は、まだ発見されていません。そのため豊臣秀長と血のつながった子孫が完全に途切れてしまったと判断することはできない状態です。
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おみや(三八)という名前について
なお豊臣秀長の長女で「秀保の妻」である女性を調べていると、この女性の名前を「豊臣おみや(三八)」とする説を見かけます。
しかしながらNHKの大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんや柴裕之さんの著作物を読む限り、豊臣秀長の長女に関する言及はあるものの、その名前を「おみや」とする記述は見当たりません。
いずれの本も豊臣秀長の長女の名前については「不明」であるとしています。
豊臣秀長の長女「秀保の妻」 参考資料
- 柴裕之「羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書 679)」
- 黒田基樹「羽柴秀長の生涯: 秀吉を支えた「補佐役」の実像」平凡社新書
- 黒田基樹「秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治」講談社現代新書
- 柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版
