竹中半兵衛の死因は病死です。
1579(天正7)年6月13日に播磨国三木城攻めの最中に36歳で亡くなりました。
「豊臣兄弟!」の第23話「さらば半兵衛」において竹中半兵衛(菅田将暉)の最期が描かれます。
▼ 竹中半兵衛はなぜ死亡した?
・中国攻めの最中に病死したとされる
・死因は肺結核(労咳)説が有力
・死の直前まで秀吉軍の軍師として活動
・黒田官兵衛や松寿丸にも大きな影響を与えた
この記事では、竹中半兵衛の死因や最期、「豊臣兄弟!」で今後どう描かれるのかを史実ベースでわかりやすく解説。
また、竹中半兵衛の人物像や黒田官兵衛との「二兵衛」関係について知りたい方は、下記の記事も参考にしてください。
→ 竹中半兵衛とはどんな人物?秀吉を支えた天才軍師を簡単に解説
→ 黒田官兵衛と竹中半兵衛|“二兵衛”と呼ばれた秀吉軍の天才軍師を解説
結論|竹中半兵衛は中国攻めの途中で病死した
竹中半兵衛は1579(天正7)年6月13日に中国攻めの一環として行われた三木城攻めの陣中において病死したとされています。
享年は36歳で、非常に若い死でした。
▼ 半兵衛の最期
・中国攻めの最中に体調を悪化させる
・播磨国三木城攻めの陣中で病死
・死因は肺結核(労咳)説が有力
・秀吉軍に大きな衝撃を与える
・黒田官兵衛の軍師的役割がさらに重要になる
「豊臣兄弟!」の第23話「さらば半兵衛」では、この半兵衛の最期が大きな山場として描かれます。
「豊臣兄弟!」では竹中半兵衛はどう描かれる?
第21話「風雲!竹田城」では太田垣輝延の竹田城を奪取するよう献策
第21話「風雲!竹田城」では播磨の平定と同時に、軍資金を確保するために但馬国にある生野銀山を支配する、竹田城城主の太田垣輝延を攻撃する策を、秀吉と小一郎に提案します。
第23話「さらば半兵衛」が最大の山場になる
この話において、文字通り菅田将暉さん演じる竹中半兵衛の最期が描かれます。
黒田官兵衛との“二兵衛”関係にも注目
半兵衛と黒田官兵衛は、ともに秀吉を支えた軍師として「二兵衛(にへえ)」または「両兵衛(りょうべえ)」と呼ばれてきました。
「豊臣兄弟!」でも、二人の軍師の関係性が重要な見どころになるでしょう。
松寿丸救出の伏線になる可能性
竹中半兵衛は、後に黒田官兵衛の息子・松寿丸(黒田長政)を救った人物としても知られています。
そのため、第23話「さらば半兵衛」から第24話「軍師官兵衛!」にかけての流れは非常に重要で、松寿丸が生還する伏線が張られます。
竹中半兵衛はなぜ死亡した?
結論:竹中半兵衛の死因は病死とされています。ただし具体的な病名は不明です。
死因は病死と伝わる
竹中半兵衛の死因について、信頼できる史料(「信長公記」)では病死とされています。
ただし、具体的にどの病気だったのかは分かっていません。
そのため「結核だった」「胃の病だった」などの説はありますが、確実なことは不明です。
労咳(結核)だった可能性もある
後世には、半兵衛は「労咳(ろうがい)」を患っていたという説もあります。
労咳は現在でいう肺結核を指す場合があり、そのため結核説が語られることがあります。
ただし、当時の医療水準では病名の特定が難しく、あくまでも推測の域を出ません。
三木城攻めの最中に病状が悪化
半兵衛は播磨国で行われていた三木城攻めの最中に病状が悪化しました。
天正7年(1579年)、平井山の陣で36歳前後の若さで亡くなったとされています。
平井山には現在も竹中半兵衛ゆかりの墓碑が残されています。
「豊臣兄弟!」では病弱な姿が描かれている
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、菅田将暉さん演じる竹中半兵衛がたびたび咳き込む様子や、体調を崩している様子が描かれています。
史実では病死したことしか分かっていませんが、ドラマでは労咳(結核)を思わせる演出が取り入れられている可能性があります。
竹中半兵衛の最期はどうだった?
死の直前まで軍師として活動
半兵衛は一時、京都に退いて病気の療養をしていましたが、1579(天正7)年には戦線に復帰。病を抱えながらも最期まで戦況分析や調略に関わっていたと考えられています。
軍配を官兵衛へ託した逸話
半兵衛は死の直前に、官兵衛の嫡男・松寿丸を通じて官兵衛に軍配を託していました。軍配とは戦の指揮をするために必要な道具です。
つまり半兵衛は軍配を官兵衛に託すことで、軍師の引き継ぎをしたのでした。
秀吉軍に大きな衝撃を与えた
半兵衛の死は秀吉軍にとって大きな損失でした。
半兵衛の死を聞いた秀吉は、思わず手を握りしめて落涙したと言われています。
その後、秀吉軍の軍師として黒田官兵衛の存在感がさらに増していくことになります。
半兵衛死後の竹中家
半兵衛が病死をしたのち、嫡子・竹中重門(たけなかしげかど)が竹中家を相続。
重門は1600(慶長5)年に行われた「関ヶ原の戦い」では東軍を率いる徳川家康に味方し、西軍の将である小西行長を生け捕りにする戦功を立てました。
この戦功により竹中重門は「交代寄合の旗本」に列せられることになります。「交代寄合の旗本」とは大名ではないものの、徳川将軍家から大名並みの待遇を受ける特別の格を持った旗本のことです。
竹中半兵衛と黒田官兵衛の関係|“二兵衛”とは?
「二兵衛(両兵衛)」と呼ばれた
竹中半兵衛と黒田官兵衛は、ともに羽柴秀吉を支えた天才軍師として知られています。
二人とも名前に「兵衛」がつくことから、「二兵衛(にへえ)」や「両兵衛(りょうべえ)」とも呼ばれるようになりました。
半兵衛は理論型、官兵衛は実戦型とも言われる
一般的には、
・竹中半兵衛 → 静かな知略型
・黒田官兵衛 → 調略と実行力型
として語られることが多いです。
半兵衛の死後は官兵衛が軍師となる
半兵衛が亡くなった後、秀吉軍では黒田官兵衛の重要性がさらに高まっていきます。
その意味でも、半兵衛の死は秀吉軍の転換点だったと言えるでしょう。
黒田官兵衛と竹中半兵衛の関係を詳しく知りたい方へ
“二兵衛”と呼ばれた二人の軍師の違いや関係性については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 黒田官兵衛と竹中半兵衛|“二兵衛”と呼ばれた秀吉軍の天才軍師を解説
松寿丸(黒田長政)救出との関係
松寿丸とは誰?
松寿丸は黒田官兵衛の嫡男で、後の黒田長政です。
半兵衛は松寿丸を匿ったとされる
「有岡城の戦い」で官兵衛が幽閉された際、織田信長は秀吉を介して松寿丸にも処刑命令を出したとされています。
しかし、竹中半兵衛は命令に背き、密かに自らの居城であった菩提山城において松寿丸を匿ったという逸話が有名です。
半兵衛が松寿丸の命を救った理由
「NHK大河ドラマ歴史ハンドブック 軍師官兵衛」によると、半兵衛が信長の命令に背いてまで松寿丸の処刑を実行しなかった理由を「同じ軍師として互いに共感し合うものがあったから」と説明しています。
わずかな期間行動をともにしただけの間柄であったが、同じ軍師として分かり合えるところがあったのかもしれない。また、同じく子を持つ親として共感できる何かがあったのかもしれない。
松寿丸について詳しく知りたい方へ
松寿丸がどんな人物だったのか、なぜ命を救われたのかについては、下記の記事で詳しく解説しています。
竹中半兵衛についてよくある質問(FAQ)
竹中半兵衛の死因は?
病死説が有力で、肺結核(労咳)だった可能性が指摘されています。
竹中半兵衛は何歳で死亡した?
36歳で死亡しました。
黒田官兵衛と竹中半兵衛はどちらが優秀?
一概には比較できませんが、半兵衛は理論型、官兵衛は実戦・調略型として語られることが多いです。
松寿丸救出は本当?
ほぼ史実であると考えられます。
後年、黒田長政(松寿丸)は半兵衛の恩義に報いるために、半兵衛の孫・竹中重次(たけなかしげつぐ)を養育し自らの家臣に取り立てました。
竹中半兵衛や“二兵衛”をさらに詳しく知りたい方へ
竹中半兵衛とはどんな人物?
秀吉を支えた天才軍師・竹中半兵衛の人物像について詳しく解説しています。
→ 竹中半兵衛とはどんな人物?秀吉を支えた天才軍師を簡単に解説
黒田官兵衛はどうなる?
有岡城の戦い(有岡城事件)で幽閉された黒田官兵衛について詳しく解説しています。
→ 黒田官兵衛はどうなる?荒木村重の乱で幽閉された天才軍師を解説
黒田官兵衛と竹中半兵衛の関係
“二兵衛”と呼ばれた二人の軍師の関係を詳しく解説しています。
→ 黒田官兵衛と竹中半兵衛|“二兵衛”と呼ばれた秀吉軍の天才軍師を解説
竹中半兵衛は別所長治が籠る三木城攻めの最中に病死
1578(天正)6年2月下旬に別所長治が織田信長を裏切り、三木城に籠城。竹中半兵衛はこの三木城攻めの最中に病死しました。
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
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参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
