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若政所 豊臣秀次の正室 池田恒興の娘 秀次切腹事件の処刑を免れる

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目次

若政所の名前について

若政所とは

若政所(わかまんどころ)(?~1601年)とは、織田家重臣・池田恒興(いけだつねおき)の次女で、豊臣秀次の正室(正妻)だった女性です。

1582(天正)10年6月2日に起こった本能寺の変で織田信長が敗死。

同じく織田家の重臣となっていた羽柴秀吉(2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の藤吉郎のこと)は、織田家の中で勢力を拡張する過程において池田恒興と政治的な結びつきを強くすることを目的として、1583(天正11)年ごろに豊臣秀次と若政所は結婚することになります。

若政所の名前

「政所(まんどころ)」という名前は関白に任官した男性の妻に与えられる敬称です。豊臣秀次は1591(天正19)年12月28日に関白に任官しているので、「若政所」はそののちに使われた名前ということになります。

豊臣秀吉の正妻(正室)で、秀吉の関白就任後に「北政所(きたのまんどころ)」と呼ばれた「寧々」のように、若政所にもそれまでに使われていた名前があったはずですがその名前は伝わっていません。

また「羽柴秀吉とその一族」によると、「東西歴覧記」引用の「瑞龍寺過去帳」に基づいて若政所には「致祥院殿」という法名が伝わっていることを明らかにしています。

「若政所」にはなぜ「若」の字が付いているのか?

なお「政所」に「若」という文字が付いているのは、秀次にはもう一人の正室として、菊亭晴季(きくていはるすえ)の娘・一の台(いちのだい)がいたからです。

おそらくもう一人の正室である一の台の方が年長に見られていたため、池田恒興の娘の方に「若政所」という敬称が用いられた推察されます。

秀次が、天正十年(一五八二)六月の山崎の戦いのころ、信長の重臣の一人だった池田恒興の娘と結婚したことはすでにみた通りである。いつ結婚したのかはわからないが、秀次が関係した女性たちのランクからいって、彼女が秀次の正室だったことはまちがいない。
 ただ、問題なのは、菊亭、すなわち今出川晴季の娘もランクとしては上で、しかも、いまここに引用したように「一の台」とみえる。「一の台」は、「一の御台所」の意味で、正室をさす。ということは、秀次には二人の正室がいたことになるのではないか。池田輝政の妹を「わかまんどころ」、すなわち、若政所といっているところをみると、「一の台」の菊亭晴季の娘の方が、「若くない方の政所」ととらえられていたものと思われる。

小和田 哲男. 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) (pp. 191-192). (Function). Kindle Edition.

若政所の出自と家族

若政所の出自

上述したように若政所の父は織田家重臣の池田恒興でした。

若政所と豊臣秀次が結婚した頃の池田恒興は「清須会議」に参加した柴田勝家・丹羽長秀・羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)と並ぶ織田家における最高幹部で、摂津国大坂(現在の大阪市)・尼崎(現在の兵庫県尼崎市)・兵庫(現在の神戸市)に所領を有していました。

若政所の家族

若政所には父の池田恒興の他に兄弟として池田元助・池田輝政などの兄弟がいます。ただ夫・豊臣秀次の間には子供はいないと考えられています。

若政所の動向

豊臣秀次との結婚

上述したように羽柴秀吉が池田恒興との結びつきを深めるために、豊臣秀次と若政所は1582(天正10)年ごろに婚約を交わし、1583(天正11)年の賤ヶ岳の合戦が終わったのちに2人は結婚をしたと考えられます。

また豊臣秀次と若政所が結婚した頃、池田恒興は所領が摂津国大坂から美濃国岐阜に移っているため、2人の婚姻と池田恒興の領地替えには何らかの約定が含まれていたという説もあります。

豊臣秀次切腹事件では処刑を免れる

若政所の動向としてもう1つ分かっていることは、1595(文禄4)年7月15日に高野山で発生した「豊臣秀次切腹事件」の連座による処刑を免れたいたことです。

池田家履歴略記」では、若政所が亡くなった年は、事件が発生した1595年ではなく、1601(慶長6)年であることが記されています。

第二之御女<御名不詳>天正十年関白秀次<此時は三好孫七郎と申而太閤之養子也>に嫁し給ふへき約あって、同十一年彼方にまゐり給ひ、正二位に叙し給ふ<叙位之曰くはしく知らす>、秀次生害の後は何方におはせしにや其詳なる事知かたし、慶長六年八月七日薨し給ふ、御法名致祥院殿と申、洛東善正寺に葬れり、高野山に御位牌御安置、備前には位牌もなし、

黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) 173ページ

【現代語訳】
第二の御娘(お名前は不明)は、天正十年に関白・豊臣秀次(この時は「三好孫七郎」と称し、太閤の養子であった)に嫁がれることが約束され、翌十一年に秀次のもとへ参られた。その際、正二位に叙せられたというが、その叙位の経緯については詳しくは分からない。
秀次が自害した後、この御娘がどこにいらしたのか、その詳しい事情は知りがたい。
慶長六年八月七日に薨去なされ、法名は「致祥院殿」と申し、洛東(京都東山)の善正寺に葬られた。
高野山には御位牌が安置されているが、備前には位牌はない。

「太閤さまの軍記のうち」でも若政所は処刑は免れていた

信長公記」の著者でもある太田牛一が記した「太閤さま軍記のうち(大かうさまくんきのうち)」には、秀次が切腹したのちその妻子ら39人が処刑される様子が描写されています。

生々しい処刑の描写の前に「関白秀次卿のわかまんどころ殿、羽柴三左衛門(池田輝政のこと)兄弟に候あひだ、三州(三河国)へ送りつかはされ、」と記されていることから、やはり若政所は秀次の他の妻子たちと違って処刑を免れていたことが分かります。

若政所の関連記事と参考文献

若政所 関連記事

若政所の夫である豊臣秀次については下記の記事で言及しています。

若政所 参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」において時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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