日秀尼(にっしゅうに)の名前について
日秀尼とは
日秀尼(にっしゅうに)(1532~1625年)とは、NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」のとも(宮澤エマ)にあたる女性です。
日秀尼は豊臣秀吉(池松壮亮)・豊臣秀長(仲野太賀)兄弟の姉にあたり、1591(天正19)年に関白に就任する豊臣秀次の母でもあります。
日秀尼の名前について
「日秀」とは出家した後の名前で、出家する前の名前(俗名)は史料で明らかになっておらず分かっていません。
「豊臣兄弟!」では宮澤エマさんが演じる役名を「とも」としていますが、「とも」は江戸時代以降に作られて所伝に基づいて名付けられたと考えられます。
また瑞龍寺過去帳によると、日秀尼のことを「瑞龍寺日秀」と呼んでいることから、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証をされている黒田基樹さんの著作「羽柴秀吉とその一族」では、ともにあたる女性のことを法号の「瑞竜院殿(ずいりゅういんでん)」と呼称しています。
日秀尼の出自と家族
日秀尼の出自
日秀尼は父は妙雲院殿栄本、母は天瑞院殿(大政所。「豊臣兄弟!」のなかにあたる女性)です。日秀尼の父母は豊臣秀吉・秀長の兄弟と同父同母です。
また日秀尼の母・天瑞院殿は、関弥五郎兼員(せきやごろうかねかず)という苗字を持った人物の娘であることが分かっています。
このことから日秀尼の出自は、土地を持つことができない「奴(やっこ)」と呼ばれる小作人の百姓ではなく、村の運営にも携わることができる独立した百姓であったことが推測されます。
日秀尼の家族
妙雲院殿栄本と天瑞院殿という父母のもとで長女として生まれた日秀尼には、豊臣秀吉・秀長・朝日姫(南明院殿)(「豊臣兄弟!」のあさひにあたる女性)という兄弟がいました。
また三好吉房(三好常閑)と結婚したのち、長男の豊臣秀次(次兵衛または治兵衛)・次男の豊臣秀勝(小吉)・三男の豊臣秀保(鍋丸)という3人の男の子を持つに至ります。
ただし三男の秀保は誕生年が1579(天正7)年であり、日秀尼が46才のときに生まれています。このことから豊臣秀保は日秀尼の実子ではなく、養子であると推定されています。
日秀尼の動向: 長男・豊臣秀次との関係
秀吉の政治の道具として使われる日秀尼の子供たち
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では日秀尼にあたる「とも」の役柄をこのように説明しています。
豊臣兄弟の姉。しっかり者で負けん気が強い。三人の男児を産み育てるが、跡継ぎに恵まれなかった弟の秀吉によって政治の道具として利用される。のちに秀吉の後継者となった長男の秀次は謀反の疑いをかけられ妻子とともに処刑されることになる。
「三人の男児を産み育てるが、跡継ぎに恵まれなかった弟の秀吉によって政治の道具として利用される」とありますが、日秀尼の動向は子供たちの事績、特に長男・豊臣秀次の事績を追いかけると理解しやすくなるでしょう。
長男・秀次を宮部継潤の養子に差し出す
日秀尼は1564(永禄7)年もしくは1565(永禄8)年に、三好吉房との間に長男の秀次(次兵衛)を出産。ところが1571(元亀2)年ごろ、弟の秀吉は次兵衛を浅井家の家臣である宮部継潤の養子に出してしまいます。
当時、秀吉は織田家の武将として北近江の浅井家を攻撃しており、宮部継潤には織田家への寝返り工作を行なっていました。
「養子」と言えば聞こえは良いものの、実子がいなかった秀吉は織田家に寝返った後の宮部継潤の安全を保証するために、日秀尼の長男・次兵衛を「人質」として差し出したと推測できます。
この点で、『関白秀次評伝』の著者荒木六之助氏は、「実際には、秀吉の方が頭を下げて、人質がわりにその甥を継潤のもとへ送ったとみるべきである」と述べているが、たしかにその可能性はある。この段階の秀次は、養子といっても、人質のような形で差し出されたとみてもまちがいではないからである。
小和田 哲男. 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) (p. 20). (Function). Kindle Edition.
このときの日秀尼の様子はどのようなものであったか記録は残っていません。ですが幼い我が子を「人質」に出される母親といえば、その心のうちは容易に想像がつくでしょう。
宮部家との養子縁組を解消して三好康長の養子に
宮部継潤の養子に出されていた次兵衛は元服して「宮部吉継(みやべよしつぐ)」を名乗るようになりますが、1582(天正10)年10月ごろまでにはその養子縁組を解消して、阿波を本拠とする三好康長の養子に出されることになります。
このころ秀吉は本能寺の変ののちに織田家重臣の中で行われた「清須会議」において、信長の領国である山城と丹波の2カ国を所領とすることが決まりました。
畿内に近く阿波を治める三好家と友好関係を保つために、宮部家の養子となっていたはずの吉継を、三好康長の養子として送り込み、「三好孫七郎信吉(みよしのぶしちろうのぶよし)」と名前を改めさせます。
このときも日秀尼の気持ちはどのようなものであったか記録は残っていません。しかし弟・秀吉の都合で他家から他家へと養子縁組をさせられる我が子を見る母親の気持ちはいかばかりであったでしょうか。
秀次が羽柴家に戻ってきたのは1585(天正13)年のこと
結局、秀次が羽柴一門の人間として戻ってきたのは1585(天正13)年閏8月のこと。近江八幡山城43万石の領主として呼び戻されたときのことです。すでに秀吉は関白に任官しており、三好家に気を遣う必要もありませんでした。
このとき秀次に与えられた領地高は一門衆筆頭とされた豊臣秀長の領地高に次ぐ大きさでしたが、秀吉の都合で他家の養子としてたらい回しにされた挙句のことなので、日秀尼が秀次を見る気持ちはさぞ複雑なものであったことでしょう。
日秀尼の動向: 三男・豊臣秀保 次男・豊臣秀勝との関係
三男・秀保は2番目の弟・秀長の養子に
豊臣政権の都合で養子に出されたのは、日秀尼の子供は長男・豊臣秀次だけではありません。三男の豊臣秀保も養子に出されており、その行き先は日秀尼の2番目の弟である豊臣秀長のところでした。
1588(天正16)年、まだ10才にも満たない鍋丸(のちの豊臣秀保)は豊臣秀長の養嗣子に指名されます。実は豊臣秀長には丹羽(惟住)長秀の三男・千丸が養嗣子に迎えられていましたが、秀吉は豊臣一門衆の筆頭となる人間が豊臣家出身でないことを問題視。
そのため千丸を秀長の後継者から外し、代わりに鍋丸を秀長の後継者に指名。鍋丸が秀長の後継者に指名されたとき、日秀尼の気持ちを表すものは何も残っていませんが、長男・秀次の例を見ているだけに素直に喜ぶべきかどうか迷ったに違いありません。
養子に出さずに済んだのは次男・秀勝だけ
日秀尼が唯一、養子に出さずに済んだのが次男の秀勝です。秀吉が関白に任官した頃の豊臣一門衆における序列は秀長・秀次に次ぐ地位を占めていたと考えられます。
しかし1589(天正17)年7月に領地であった丹波亀山での石高を訴えたことで秀吉から勘当を受け、以後官位の昇進が遅れ気味に。
1590(天正18)年の小田原征伐の後、甲斐一国22万石が与えられますが、わずか8ヶ月で岐阜への国替を命じられます。一説には「甲斐は都から遠すぎる」と日秀尼が秀吉に嘆願したことによる国替であったと言われています。
だが、秀勝の甲府支配は、わずか八ヶ月余をもって終わりを告げた。天正十九年三月頃、秀吉は秀勝に美濃国岐阜(岐阜県)へ国替を命じた。その理由は、秀勝生母の嘆願によるものと言われている(『甲府市史』通史編第一巻原始・古代・中世)
長男の秀次・三男の秀保がそれぞれ養子に出されたことを考えると、次男の秀勝だけは手元に置いておきたいという親心が働いたのかもしれません。
秀吉死後の日秀尼の動向
1595(文禄4)年7月、長男・豊臣秀次は切腹し、1598(慶長3)年9月、弟・豊臣秀吉が病死。
その後の日秀尼の動向はほとんど伝わっていません。伝わっているのは1625(寛永2)年に93才(数え年で94才)で亡くなったということだけです。
秀吉の妻・寧々である高台院が亡くなったのは1624(寛永元)ですから、現在のところ豊臣一門の人間として誰よりも長く生きたと考えられています。
日秀尼の関連記事と参考文献
日秀尼の関連記事
日秀尼または瑞竜院殿と呼ばれる女性については下記の記事でも言及しています。
- 豊臣秀長 兄弟 とも・藤吉郎秀吉・あさひ 大河ドラマ 豊臣兄弟!
- 豊臣兄弟! とも 秀長後継者・豊臣秀保の母 宮澤エマ
- とも(瑞竜院殿)死因は不明 93才で亡くなる 豊臣兄弟!
- 日秀尼 子孫 豊臣秀次・豊臣秀勝・豊臣秀保・豊臣完子など
日秀尼の参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
