駒姫の名前について
駒姫とは
駒姫(こまひめ)(1581~1595年)とは、出羽国山形の戦国大名・最上義光(もがみよしあき)の次女で、豊臣秀次(2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」の藤吉郎の甥)の側室(別妻)だった女性です。
父・義光によって豊臣秀次の側室として差し出されたものの、1595(文禄4)年7月15日に「豊臣秀次切腹事件」が発生した際に、秀次の謀反に連座した罪で斬首されたとことにより「悲劇の姫君」として知られています。
駒姫の名前について
駒姫は「駒姫」という名前で知られていますが、太田牛一が記した「太閤さまの軍記のうち(大かうさまくんきのうち)」では豊臣秀次の側室として「おいま(伊万)の御方」と記録されています。
駒姫の出自と家族
駒姫の出自
駒姫の父は出羽国山形の戦国大名・最上義光で、母は大崎義直の娘(釈妙英)です。
最上氏の家系をたどると清和源氏に連なる足利氏にたどることができ、室町幕府においては羽州探題を世襲できる名門の家柄でした。
駒姫の家族
駒姫の家族としては父・最上義光、母・大崎義直の娘以外に、兄弟に最上義康や義光の跡を継いだ最上家親などがいました。
ちなみに最上義光の妹・義姫は伊達輝宗に嫁いでいることから、輝宗・義姫夫妻の長男である伊達政宗と駒姫の従兄弟の関係にあります。
駒姫の動向
豊臣秀次の側室になるまで
駒姫が豊臣秀次の側室となった経緯は、1987(昭和62)年にNHKで放送された大河ドラマ「独眼竜政宗」の第32回「秀次失脚」において、原田芳雄さん演じる最上義光自身が独白をしています。
その義光によると、関白となった豊臣秀次(陣内孝則)の求めに応じるまま、東北で名高い美少女と呼ばれた駒姫を差し出したようです。
義光は関白という権勢に媚びることによって、豊臣一門の治世における最上家の安泰を図るつもりであったと苦しい心のうちを明かしています。
秀次切腹や一の台の不審な行動の巻き添えを喰らった駒姫
しかし1595(文禄4)年7月3日から15日にかけて「豊臣秀次切腹事件」が発生すると、同年8月2日に駒姫は「秀次謀反」に連座したという罪により、他の秀次の妻子ら39人とともに京・三条河原に引き出されます。
7月3日の時点では豊臣秀吉には秀次を殺害する意図はなかったものの、秀吉の予想を超えて秀次が切腹したことや、秀次の正室の1人である一の台が無断で反故(文書)を焼却するなどの行為が、秀吉の怒りを買い連座の罪が秀次の妻子ら39人もの人たちに連座が及んだと考えられます。
つまり駒姫には何の落ち度もなく、秀次の思いがけない切腹や正室・一の台による不審な行動の巻き添えを喰らったという形です。
「独眼竜政宗」における最上義光による駒姫の助命嘆願
ちなみに「独眼竜政宗」の第32回「秀次失脚」では、在京していた最上義光は伊達屋敷に向かい、伊達政宗の正室である愛姫(桜田淳子)に頭を下げて駒姫の助命嘆願を依頼。
愛姫は豊臣秀吉(勝新太郎)の正室である北政所(八千草薫)と昵懇の仲にあり、義光は一縷の望みを愛姫に託したのです。
愛姫は義光の助命嘆願を北政所に伝え、北政所は秀吉に掛け合うも義光の願いは却下。哀れにも駒姫は11番目に処刑され、刑場の露と消えることになりました。
このとき最上義光は自らの髷を落とすほどの取り乱しようで、「大崎夫人」とも呼ばれた義光の妻は、駒姫が処刑されたのちまもなく亡くなったと伝えられています。
なお駒姫が亡くなった時の年齢は15才であると伝えられますが、「太閤さまの軍記のうち」では19才であったと伝えられています。
駒姫 関連記事と参考文献
駒姫 関連記事
30人近い側室を持ったと言われている豊臣秀次の側室の1人だった駒姫については、以下の記事でも言及しています。
駒姫 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」において時代考証を担当されています。
