豊臣秀長とは「秀吉の名代」「豊臣政権の宰相」
前半生は「秀吉の名代」、後半生は「豊臣政権の宰相」
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は、仲野太賀さん扮する豊臣秀長(1540~1591年)です。豊臣秀長は尾張国の百姓から太閤まで上り詰めた豊臣秀吉(池松壮亮)の弟ですが、何をした人物だったのでしょうか?
豊臣秀長が何をした人物であるかと問われると、その答えは「前半生は秀吉の名代」、「後半生は豊臣政権の宰相」となるでしょう。
秀長の代名詞「天下一の補佐役」
NHKは2024年3月12日に大河ドラマ「豊臣兄弟!」の制作と主演俳優の発表を行なった記事において、豊臣秀長を「天下一の補佐役」と表現しています。
「天下一の補佐役」という呼び方は、秀長が織田家における秀吉の出世を影で支え、のちに秀吉による天下統一事業に政務面や軍事面で大きく貢献したことからくる、いわば「秀長の代名詞」です。
豊臣秀長の人生を2つに分けて「何をしたか」を説明
「豊臣秀長は何をしたか?」という問いに対して、前半生は「秀吉の名代」で、後半生は「豊臣政権の宰相」であることをすでに述べました。
「秀吉の名代」の時期とは主に織田信長(小栗旬)が尾張一国を統一した1560年代から、明智光秀(要潤)によって攻め殺される「本能寺の変」が発生した1582年まで。後半生の「豊臣政権の宰相」の時期とは、その翌年の1583年から秀長が亡くなる1591年までです。
以下の文章では「豊臣秀長の年表」に基づいて、豊臣秀長は何をしたのか具体的に説明します。なお「豊臣秀長の逸話 6つのエピソードから 大河ドラマ 豊臣兄弟!」という記事では豊臣秀長の人物像に迫っています。合わせて参考にしてください。
織田信長による天下統一事業の時代(1550年代〜1582年)
1550年代後半から1560年代前半ごろ: 織田家に仕官 兄・秀吉の家来に
豊臣秀長の兄・豊臣秀吉は1553(天文22)年ごろから1558(弘治4/永禄元)年ごろに、当時清須城を本拠とする織田信長に仕え始めます。
仕官をした詳しい時期は不明ではあるものの、秀長は秀吉の後に続き織田家に仕え始め、秀吉の第一の家来となったと考えられています。
1560年代後半から1570年代前半: 秀吉とともに各地を転戦
1560年代後半から1570年前半までの時期について、豊臣秀長はほとんど史料に登場しません。
一方、この頃は兄・秀吉の主な活躍は以下のとおりです。
- 1564(永禄7)年 美濃攻略に伴う国人・地侍の調略
- 1566(永禄9)年 美濃川並衆とともに「墨俣一夜城」の築城
- 1568(永禄11)年 京都奉行として京都の治安維持や足利将軍との折衝を行う
- 1570(元亀元)年5月 越前の朝倉征伐と「金ヶ崎の退き口」で殿(しんがり)を務める
- 1570(元亀元)年5月 姉川の戦いに出陣
- 1573(天正元)年 北近江の浅井氏を殲滅
この活躍によって秀吉は織田家の足軽大将から、浅井氏の旧領だった北近江三郡を支配する長浜城主となるまでの出世をします。この秀吉の出世の影には、「名代」としての弟・秀長のサポートは欠かせなかったと考えられます。
ちなみに1996年にNHKで放送された大河ドラマ「秀吉」や、堺屋太一さんの「豊臣秀長 上巻」では、1560年代後半から1573年ごろにおける秀長の活躍も描かれています。
「信長公記」で初登場する秀長
なお秀長が時期とともに史料に初めてその名前が登場するのは1574(天正2)年のことです。
「信長公記」において豊臣秀長は「木下小一郎長秀」という名前で伊勢国で発生した長島一向一揆鎮圧のために先陣として出陣。その後、桑名の地を守っていたことが記録されています。
1578(天正6)年から1582(天正10)年まで: 但馬国の支配を確立
1577(天正5)年ごろから信長の命を受けた秀吉による、対毛利氏の中国征伐が本格化します。秀長は秀吉ともに出陣し、但馬国(現在の兵庫県北部)の竹田城に籠る太田垣氏を攻撃(第一次但馬攻撃)。
翌1578(天正6)年には竹田城の城代となり、但馬国のうち朝来郡と養父郡(現在の兵庫県朝来市と養父市)の支配を確立します。
さらに秀長は1580(天正8)年ごろ第二次但馬攻撃を行い、但馬一国の支配を確立し居城を竹田城から出石城に。その後、1582(天正10)年に秀長は初めて朝廷から官位を授爵されて「従五位下美濃守」に任官します。
豊臣秀吉による天下統一事業の時代(1583年〜1591年)
1583(天正11)年から1584(天正12)年まで: 但馬・播磨の2カ国を支配
本能寺の変で討たれた織田信長に代わって天下統一事業に乗り出した秀吉は、山崎の戦い(1582年)・賤ヶ岳の戦い(1583年)で明智光秀・柴田勝家といった織田家の重臣たちを次々と殲滅します。
その過程で秀長は功があったとして、1583(天正11)年、秀吉から但馬・播磨2カ国の領有と丹波国福知山(現在の京都府福知山市)の経営を認められ、居城を出石城から姫路城に移します。
翌1584(天正12)年に秀吉と徳川家康(松下洸平)の間に起こった小牧長久手の戦いでは、秀長は徳川家康に味方する織田信雄と和議の交渉を担当。
1585(天正13)年: 大和・紀伊・和泉3カ国を支配 100万石の大名に
1585(天正13)年は、「紀州征伐」・「四国征伐」・「四国国分」・「紀伊・大和・和泉3カ国の領有」など、豊臣秀長の生涯において活躍が最も著しかった年だったと言えるでしょう。
紀州征伐
1585(天正13)年3月に秀吉の紀州征伐に副将として参陣。太田城水攻めや根来寺焼き討ちののち、秀長は但馬・播磨国から紀伊・和泉国に移封されることが決定。和歌山城を築城し居城とします。
四国征伐
1585(天正13)年5月、秀長は四国の4カ国(讃岐・阿波・伊予・土佐国)を支配する長宗我部元親を攻めるための総大将の任命されます。
四国国分
秀長は四国征伐の戦後処理として四国国分(しこくくにわけ)を行います。このとき長宗我部元親の支配は土佐一国のみとし、伊予国は小早川隆景による支配を認めるという裁定を下します。
紀伊・大和・和泉3カ国の領有
1585(天正13)年8月、四国征伐と四国国分の功として秀長は秀吉より大和国を加増。このとき居城を和歌山城から大和郡山城に移し、100万石を超える大大名となります。
さらに拠点を和歌山から郡山に移したことから、大和国における寺社への寄進・枡の統一・酒造業の保護など郡山における商工業の発展などに力を入れることに。
1586(天正14)年: 九州征伐の副将として出陣
1586(天正14)年、秀長は九州征伐の副将として出陣し、豊前・豊後・日向・大隈国など主に九州の東半分の戦線を担当。日向佐土原城主の島津家久を降伏させるなどの功を上げます。
一方、秀長は九州征伐が始まる前に、九州で覇権を争う大友氏と島津氏の調停を図っていました。
このことから豊臣家に臣従を誓う大名たちは「公儀之事」は秀長に持ち込むようになり、秀長は豊臣政権における実質的な「宰相」と見られるようになります。
1587(天正15)年: 九州国分と従二位権大納言の任官
1587(天正15)年5月、秀長は九州征伐の戦後処理として、九州国分(きゅうしゅうくにわけ)を行います。九州の西半分の知行割は秀吉が自ら行う一方、秀長は九州征伐の論功行賞をもとに東半分(豊後・豊前・日向)の知行割を行いました。
さらに同年8月、秀長は朝廷から「従二位大納言」の官位を授けられます。一般に豊臣秀長は「大和大納言」とも呼ばれますが、その呼び名は1587年に大納言の官職を授けられたことに由来するものです。
1588(天正16)年: 聚楽行幸に参列
1588(天正16)年、関白に任官し京都に聚楽第を築いたことから、豊臣秀吉は臣下として正親町上皇と後陽成天皇を聚楽第に招きます(聚楽行幸)。このとき秀長は大納言として行幸に参列。
1589(天正17)年から1591(天正19)年まで: 病気がちの晩年
1588(天正16)年ごろから、豊臣秀長は病気がちとなり活躍が衰え始めます。1590(天正18)年の小田原征伐では、秀長は病気のため参陣ができず上方における留守居役に。
またこの頃、兄・秀吉が病に伏せる弟・秀長を見舞ったり、徳川家康との手紙のやり取りで秀長自身が病気に言及することが多くなります。
1591(天正19)年1月、手当の甲斐もなく、秀長は病気のため大和郡山城で亡くなります。秀長の跡はすでに養子となっていた秀保が継ぐことになります。
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豊臣秀長 年表 参考資料
豊臣秀長に関する参考文献
「豊臣秀長 何をした人なのか」という記事を書くにあたって参考にした本と配信サービスがあります。
そのうち参考文献については「豊臣秀長」を編著した柴裕之さんは、NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
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