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豊臣秀長の逸話 6つのエピソードから 大河ドラマ 豊臣兄弟!

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目次

豊臣秀長とはどんな人だったのか?

豊臣秀長の業績と人物像について

NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」では、仲野太賀さん扮する豊臣秀長(1540~1591年)が主人公です。豊臣秀長は16世紀後半の戦国時代から安土桃山時代にかけて活躍した人物です。

これまで「豊臣秀長 何をした人 豊臣秀長とは 大河ドラマ 豊臣兄弟!」という記事では、豊臣秀長の業績について紹介しましたが、今回の記事では豊臣秀長の人物像にスポットライトをあて、「豊臣秀長」とはどんな人物だったのかを紹介いたします。

なお、豊臣秀長とお金に関わる「ケチ」エピソードについては、「豊臣秀長 ケチ 秀長とお金にまつわる3つのエピソード」の記事を参考にしてください。

豊臣秀長に関する参考資料

なお今回の記事は以下の資料を参考にしています。

これらのうち「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 」を編著した柴裕之さんは、NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。

実話に基づく豊臣秀長の人物像

1. 豊臣秀長は温厚で誠実な調整役だった

豊臣秀長は「温厚で誠実、人との付き合いが良く、兄・秀吉の欠点を補ってよく助けた」と言われています。

大友家文書」が所収している、1586(天正14)年4月6日付の大友宗滴書状では、豊臣秀長の温厚で誠実な性格がよく表されています。

大友宗滴の書状で見る豊臣秀長の人柄

(前略)はるはる宗滴手をとられて候て、何事も何事も美濃守如候間、可心安候、内々之儀宗易、公儀之事者宰相存候、御為に悪敷事ハ不可有之候、弥可申談と諸万人ノ中ヲ取組、御心魂、中々悉存候、いつと、この宰相殿を頼申候ハてハにて候間能よく御心得可入候、(後略)

柴裕之編著 豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版(2024年)196ページ

(現代語訳)
宗滴(大友義鎮)の手を取ってご対応くださり「何事につけても美濃守(豊臣秀長)と同様であるとのことで、どうかご安心なさってください。内々のことについては宗易(千利休)が、表立った公的なことについては宰相(豊臣秀長)が気を配っております。あなたにとって悪いようなことは決して起こらぬようにしておりますので、どうかますますご安心ください。諸人の間にもさまざまに調整を行い、あなたのご心中については、私どもは十分に承知しております」と。
今はただ、この宰相殿をお頼り申し上げるほかない状況ですので、そのことをよくよくご理解いただきますようお願い申し上げます。

豊臣秀長の人柄を解説

この文書は九州征伐の前に島津氏に攻められていた大友氏が、豊臣秀吉の救援を求めているときに発行されたものです。

窮地に陥っていた大友宗滴が安心できるように心の底から丁寧に接しただけでなく、大友氏の所領が安堵されるようさまざまな調整をしていたことが伺えます。

2. 豊臣秀長は腰の低い人だった

豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」の86ページから90ページにかけて、豊臣秀長が発給した文書と内容が一覧表形式で明らかになっています。その中には手紙の最後にどのような文言を使って文書を終えているかが分かります。

それによると1586(天正14)年ごろまでは、しばしば「恐々謹言」という言葉が使われています。

意味は「恐れ多くも、慎んで申し上げます」です。「謹言」で止めることも可能ですが、わざわざ「恐れ多くも」という意味がある「恐々」を使っていたところを見ると、豊臣秀長はかなり腰の低い人物であったことが伺えます。

3. 豊臣秀長は兄・秀吉からの信頼が厚かった

1996年にNHKで放送された大河ドラマ「秀吉」や堺屋太一さんの「豊臣秀長 上巻」では、秀吉は秀長に「墨俣一夜城」の築城を手伝わせたり、「金ヶ崎の退き口」で殿(しんがり)を務めさせたりするエピソードが描かれています。

これらのエピソードは史料では明らかにできませんが、秀長の業績を振り返ると秀長は秀吉の信頼が厚かったことは確かなようです。

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西暦(和暦)年齢(満年齢)出来事
1578(天正6)年38才羽柴秀吉による中国征伐に出陣。播磨国竹田城の城代として朝来郡・養父郡を支配
1580(天正8)年40才但馬国出石城城主になる。羽柴秀吉の鳥取城攻めに出陣
1582(天正10)年42才従五位下美濃守に任官
1583(天正11)年43才播磨国の姫路城主として播磨・但馬の2カ国の支配と丹波福知山の経営
1585年(天正13)年3月45才紀州征伐に出陣し戦後に紀伊・和泉を支配和歌山城を居城とする
1585年(天正13)年5月45才四国征伐に総大将として出陣。戦後に四国国分を行う
1585(天正13)年8月45才大和国を加増され100万石の大名に。居城を大和郡山城に移す
1586年(天正14)年46才九州征伐の副将として出陣。豊前・豊後・日向国方面の戦線を担当
1587年(天正15)年5月47才九州国分。豊前・豊後・日向・大隈国の知行割を行う
1587年(天正15)年8月47才従二位権大納言に任官

上記の年表は豊臣秀長の後半生の年表です。

これによると豊臣秀吉は、秀長を単に戦働き(中国征伐・紀州征伐・四国征伐・九州征伐)をするだけの武将ではなく、築城の名手(和歌山城・大和郡山城)や行政官(竹田城の城代・四国国分・九州国分・大和・紀伊・和泉3カ国の統治)としても大変信頼していたことがうかがえます。

4. 豊臣秀長は人付き合いもよく大名たちからの信頼も厚かった

豊臣秀長は小早川隆景のような有力大名からも「取次」として信頼が厚かったようです。

吉川盛林書状(吉川家文書)」によると、1585(天正13)年に小早川隆景や毛利輝元が大坂に来たとき、秀長自らが接待をして茶を振舞ったなどとあります。

こうした接待に関して、秀長は徳川家康にも行っています(「家忠日記」)。これらのことから豊臣秀長は人付き合いがよく、当時の大名たちからの信頼も厚かったと考えられます。

5. 豊臣秀長は大和郡山の発展に寄与して敬われた

多聞院日記」の1586(天正14)年10月9日の記載によると、豊臣秀長は奈良で使われている升を京升に統一すると述べられています。さらに翌1587(天正15)年1月には、奈良郡山の諸公事や座を廃止したことも書かれています。

升を統一し、組合の一種である「座」を廃止することは、旧来から商売を営む地域、特に門前市であった奈良には厳しい商業政策でありましたが、新興の城下町である郡山で商業を営む商人たちにとってはありがたい話でした。

このため人々はのちに豊臣秀長の墓所である「大納言塚」を造営し、豊臣秀長は亡くなったのちも祭礼などで民衆から敬まわれることになります。

6. 豊臣秀長は蓄財家だった

1996年にNHKで放送された大河ドラマ「秀吉」や堺屋太一さんの「豊臣秀長 上巻」では、豊臣秀長がまだ「小一郎」と言われた頃から、銭を貯めることに興味があったことが描かれています。

豊臣秀長が、若い頃に本当に銭を貯めていたかどうかは不明ですが、後半生において莫大な蓄財をしていたことは確かです。

当時郡山城中には金子五万六千枚余、銀子は二間四方の部屋に棟までギッチリ積み上げられていたということから、その財力ははかりしれないほど厖大なものであった。

柴裕之編著 豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版(2024年)283ページ

1591(天正19)年1月に豊臣秀長が亡くなった後には、大和郡山城には金や銀がうなるほど蓄えられていたと伝わっています。こうしたエピソードは豊臣秀長がかなりの蓄財家であったことを示すものでしょう。

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