秀長の母の名前は本当に「なか」だったのか?
「なか」という名前であったかどうかは不明
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」では主人公・豊臣秀長(小一郎)(仲野太賀)の母として、なか(坂井真紀)が登場すると発表されています。
しかし「豊臣兄弟!」で時代考証を担当をしている柴裕之さんと黒田基樹さんによると、秀長の母が「なか」という名前を使っていたかどうかは不明であると、それぞれの著作(「豊臣秀長」と「羽柴秀吉とその一族」)で説明されています。
「なか」という名前は「絵本太閤記」からのみ
では豊臣秀長あるいは豊臣秀吉の母が「なか」という名前であったという話は、どこから来ているのでしょうか?
柴裕之さん編著の「豊臣秀長」の57ページによると、「なか」という名前は「太閤記」や「太閤素性記」といった読み物にも見られず、1797(寛政9)年に初版が出版された「絵本太閤記」のみで見られる名前としています。
同書では「絵本太閤記」がフィクション的性格を持つ読み物であったことを考慮して、秀長の母の名前が「なか」であったとする説は検討の余地があるとしています。
大政所(おおまんどころ)という名前について
では秀長の母の本当の名前とは何だったのでしょうか?「豊臣秀長」では「大政所(おおまんどころ)」という名前を挙げていますが、この名前は秀吉が関白に任官した後にできた名前であるとしています。
秀吉・秀長が織田家に仕え始めたばかりで、それぞれがまだ世間から「藤吉郎」や「小一郎」と呼ばれた頃の名前としては無理があるでしょう。
秀長の母の法号は「天瑞院殿」
秀長の母の名前を「大政所」として呼ぶのは決して間違いではありません。しかし「豊臣兄弟!」が始まったばかりの序盤で、坂井真紀さん扮する小一郎の母を「大政所」と呼ぶのは時代考証として確実に間違っているでしょう。
NHKは「豊臣兄弟!」における秀長の母を、便宜上「なか」と設定していると考えられます。
なお「豊臣秀長」と「羽柴秀吉とその一族」では秀長の母を、その法号を使って「天瑞院殿」と呼んでいます。
なか(天瑞院殿)とはどんな人だったのか?
なかの生まれた年
なかこと天瑞院殿が生まれた年は1517(永正14)年です。
なかの結婚と結婚相手
なかこと天瑞院殿の結婚相手は「妙雲院栄本」という法号を持つ男性です。結婚した年は不明。
なお、なかの夫の名前は弥右衛門や竹阿弥(筑阿弥)であると言われたりしていますが、それらのことを示す有力な史料は見つかっていません。
なかの子供
なかこと天瑞院殿と妙雲院栄本という男性の間には、ともこと瑞竜院殿(1532年生まれ)、豊臣秀吉(1537年生まれ)、豊臣秀長(1540年生まれ)、あさひこと南明院殿(1543年生まれ)の二男二女を設けます。
なかは何をした人か?
1586(天正14)年、次女のあさひこと南明院殿が徳川家康と政略結婚をします。同年の9月に豊臣秀吉は家康に京への上洛を促し、家康が岡崎から京までの往復を保証する意味で、なかは人質として徳川家康に差し出されます。
ただ人質というと世間体が憚られるため、表向きは「あさひのお見舞い」ということで、なかは岡崎に向かいます。
ちなみに「あさひと徳川家康の政略結婚」や「なかの人質」といったシーンについては、2023年に放送されたNHK大河ドラマ「どうする家康」の34話「豊臣の花嫁」で描かれています。