豊臣秀長の妹・あさひの結婚相手と再婚相手について
あさひの結婚相手は2人
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公は、仲野太賀さん扮する「小一郎」こと豊臣秀長(1540~1591年)です。その豊臣秀長には3才年下の妹・あさひ(朝日姫・旭姫・南明院殿)(1543~1590年)(倉沢杏奈)がいます。
このあさひは生涯、2人の夫を持つことになります。最初の結婚相手は副田甚兵衛尉(そえだじんひょうえじょう)で、再婚相手は徳川家康です。
豊臣秀長の妹・あさひの夫 参考文献
豊臣秀長の妹・あさひの夫にまつわる今回の記事は以下の資料を参考にしています。
- 柴裕之編著「豊臣秀長 シリーズ 織豊大名の研究」戎光祥出版 (2024年)
- 黒田基樹「羽柴秀吉とその一族」角川選書(2025年)
「豊臣秀長」の柴裕之さんと、「羽柴秀吉とその一族」の黒田基樹さんは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
あさひの最初の夫・副田甚兵衛尉とは
副田甚兵衛尉は何をした人・どんな人
1673(寛文13年)に成立した山鹿素行の「武家事紀」によると、副田甚兵衛尉は義理の兄にあたる豊臣秀長の与力であったと考えられます。
与力とは直接的な「主人と家来」の関係にはなく、共通の主人からの命令で派遣されてきた部将のことです。おそらく、副田甚兵衛尉は豊臣秀吉の直臣であり、その秀吉の命令によって秀長の軍勢に加勢していたと考えられます。
1580(天正8)年、豊臣秀長が居城を竹田城から出石城に移した際に、副田甚兵衛尉は但馬国の多伊城(指杭城)に在城していたようです。
また秀吉覚書によると、副田甚兵衛尉は三木城攻めのあとに播磨国にあった神吉城の破却を担当したことも記されています(「羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)」No.536)。
あさひと副田甚兵衛尉が離婚した理由:「城を奪われたため」
しかし1582(天正10)年、京で発生した本能寺の変に伴い、副田甚兵衛尉は但馬から播磨に移動します。そのとき一揆が発生し、多伊城は一揆勢に奪取。
幸い多伊城は、秀吉の家臣で鳥取城を守っていた宮部継潤によって奪い返すことができたものの、城を奪われた失態を責められて秀吉からあさひとの離縁するように命令されます。
あさひと副田甚兵衛尉が離婚した理由:徳川家康との政略結婚
こうして見ると、あさひと副田甚兵衛尉は、少なくとも1582(天正10)年以前に結婚しており、同年に離婚をしていたことが分かります。
一方、NHKで2006年に放送された大河ドラマ「功名が辻」の32話「家康の花嫁」では、1586(天正14)年に豊臣秀吉が主導する徳川家康とあさひとの政略結婚によって、副田甚兵衛はあさひと無理矢理に離婚させられることになっています。
本当の離婚理由は「城を奪われたため」
副田甚兵衛とあさひの離婚理由が大きく異なるのは、「多伊城の失態」は「武家事紀」によるもので、「功名が辻」の「徳川家康との政略結婚」は「改正三河後風土記」と「尾張志」により、所伝が異なるためです。
「武家事紀」の成立は1673(寛文13年)であるのに対して、「改正三河後風土記」と「尾張志」の成立は、それぞれ1833(天保3)年と1844(弘化元)年。
「羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)」では「武家事紀」の成立の方が古く安土桃山時代に近いことから、副田甚兵衛とあさひが離婚した本当の理由は、1582(天正10)年に起きた「多伊城の失態」によるものとしています。
あさひの再婚相手・徳川家康
秀吉ではなく家康からの申し出だったあさひの再婚
1586(天正14)年、あさひは徳川家康の正室として政略結婚をします。通説では2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」などでで見られるように、豊臣秀吉に臣従しようとしない徳川家康を懐柔するために、秀吉側からの提案した縁組であるとされてきました。
しかし2026年に放送される、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんは、あさひと徳川家康の縁組は、家康側からの申し出によるものだったと指摘されています。
しかし結婚は、すでに柴裕之氏(『徳川家康』一五〇頁)が指摘しているように、家康から要望したものであった。これに関しては、秀吉は同年五月二十四日付の朱印書状で、「家康の事、種々縁辺等の儀迄懇望せしめ候」と述べていて(秀吉一八九三~四)、縁組が家康からの要望によるものであったことが確認される。
黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (Function). Kindle Edition.
政治的に高い地位を望んだ徳川家康
ちなみにこの引用の文章で名前が上がっている柴裕之さんも「豊臣兄弟!」で、黒田基樹さんとともに時代考証を担当されています。
おそらく家康は秀吉・秀長兄弟の妹であるあさひには夫がなく、「秀吉の義弟」という立場を手にいれることができれば、豊臣政権下で極めて高い政治的な地位が得られることを見越していたのでしょう。
佐治日向守はあさひの結婚相手だったのか?
あさひの前夫は佐治日向守だった?
あさひが徳川家康と結婚する前の夫として、副田甚兵衛尉ではなく佐治日向守(さじひゅうがのかみ)を挙げる説もあります。
あさひの前夫が佐治日向守であったという説は、すでに紹介した「改正三河後風土記」が伝えるところによります。「改正三河後風土記」によると佐治日向守は、豊臣秀吉からあさひとの離縁を言い渡されて了承はしたものの、天下に顔向けができないとして自殺をしたとしています。
佐治日向守ではなく副田甚兵衛尉と考える方が妥当
あさひの前夫を伝える所伝とは現在のところ「武家事紀」・「改正三河後風土記」・「尾張志」の3つだけです。
上述したようにこれら3つの所伝のうち年代が最も古いのは「武家事紀」です。「羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)」では成立時期から見て、あさひが最初に結婚した相手とは、佐治日向守ではなく、副田甚兵衛尉としています。