青木一矩の名前について
青木一矩とは
青木一矩(あおきかずのり)(?~1600年)は、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(仲野太賀)の与力の1人です。
豊臣秀吉・秀長兄弟の父方の従兄弟にあたる人物で、秀長の在世中には但馬国出石(いずし)城主や紀伊国入山(にゅうやま)城主を務めた人物です。
正確にいうと青木一矩は秀長の直接の家臣ではなく、秀吉から派遣された「与力」という存在です。与力とは現代風にいうと「出向」の意味に近く、雇用主は秀吉であるものの戦のときには秀長に加勢して戦うという感覚でしょう。
青木一矩の名前
インターネット上では「青木一矩」という名前で紹介されることが多くあるようですが、「青木一矩」という表記は正確ではありません。
「羽柴秀吉とその一族」によると、「一矩」という名前に改名した可能性は残しつつも、当時の史料で確認できる名前は「青木一矩」ではなく「青木重吉」であると指摘しています。
また重吉の実名についても、「一矩」「重治」「秀以」などとも伝えられ、「青木系図」にもそのように記されているが、当時の史料で確認できるのは「重吉」のみである。
黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (pp. 61-62). (Function). Kindle Edition.
よってこれ以降は「青木重吉」と表記します。
官途名と受領名
青木重吉は実名以外にも官途名と受領名を持っており、前者は「勘兵衛尉(かんひょうえのじょう)」であり、後者は「紀伊守」です。
青木重吉の出自と家族
青木重吉の出自
青木重吉の父は青木重矩(あおきしげのり)という人物で、尾張国清須城下に居住していた職人です。この青木重矩は、秀吉・秀長兄弟の父である妙雲院殿栄本の妹と結婚して青木重吉をもうけています。
「青木」という苗字を名乗っていたことを考えると青木重矩は、職人としてそれなりに有力な人物であったと考えられるでしょう。
さらに青木重矩は、秀吉・秀長兄弟の叔母にあたる女性を娶っていることから、身内が少ない豊臣兄弟にとって、重矩や重吉は貴重な親類縁者であるとも言えます。
青木重吉の家族
こうした親類の事情から青木重吉の従兄弟には、豊臣秀吉・豊臣秀長・とも(瑞竜院殿)・あさひ(南明院殿)という「豊臣家の創業メンバー」というそろっています。
また重吉自身の家族としては「紀州在国青木女房衆夫婦」と「兼見卿記」に記述されている「高樹院」と推定される女性が存在します。
秀長与力としての青木重吉の役割
秀長による但馬や紀伊の統治に貢献
冒頭で述べた通り、秀長の与力としての青木重吉は但馬出石城主や紀伊入山城主を務めていたことが判明しています。但馬も紀伊も秀長が統治していた領国であり、青木重吉は秀長による統治の一翼を担っていたと言えるでしょう。
重吉はこうした城番以外にも1585(天正13)年3月から4月にかけての紀伊攻めにおいて、秀長家臣の尾藤頼忠・藤堂高虎・杉若無心とともに紀州南部の田辺にまで進軍したことが分かっています。
熊野地方北山地域の赦免申請を取次
さらに青木重吉と紀伊国との関わりを言うと、1588(天正16)年には杉若無心とともに大和十津川方面から、秀長の領国統治に最後まで従わない熊野地方北山地域に進軍。
このとき青木重吉は秀長に近侍している小堀正次に対して、杉若無心とともに熊野地方北山地域の赦免を取り次いでいます。しかし杉若無心と青木重吉による赦免申請は秀長によって却下。
杉若と青木の申請が却下された理由はよく分かりません。当時、秀長は紀州最奥部にある北山地域の平定に手を焼いており、「穏やかな人格」と称された秀長をもってしても許せない気持ちがあったのではないでしょうか。
秀長の与力から外れたのちの青木重吉の動向
秀長から堀秀政の与力に
1589(天正17)年以降、青木重吉は豊臣秀長の与力から外れます。
同年11月に小田原城攻めの陣立書が発表されて重吉は兵1,000人の軍役を課されますが、秀長の配下ではなく越前北庄を領地とする堀秀政の指揮下で戦うことになります。
翌年の2月には青木重吉は越前大野を統治していることが分かっており、「羽柴秀長とその家臣たち」によると課せられた軍役の大きさから考えて越前大野での知行は3万3,000石程度と推定しています。
数少ない豊臣家一門として公家成大名に
その後、青木重吉は1593(文禄2)年から1595(文禄4)年にかけて越前大野から越前府中8万石に加増転封。1597(慶長2)年には朝廷から侍従に任官され、公家成大名として「羽柴」の苗字を許されます。
このことから青木重吉は「羽柴紀伊守」・「羽柴越府侍従」・「羽柴府中侍従」とも呼ばれ、1599(慶長4)年には越前北庄20万石に加増転封。
重吉がここで羽柴苗字を与えられ、公家成大名とされたのは、父方の親類であったためと考えられる。その時点で、秀吉には一門衆は、養子の小早川秀秋しかいない状態にあり、嫡男の秀頼を支えるための親類衆として、重吉を取り立てたのだろうと思割れる(拙著『羽柴を名乗った人々』)
黒田 基樹. 羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人 (角川選書) (pp. 117). (Function). Kindle Edition.
しかし1600(慶長5)年9月の関ヶ原の戦いでは西軍に味方しまったため、徳川家康から改易処分を受けることに。重吉自身は改易処分の受ける直前に北庄城で死去することになります。
青木重吉 関連記事と参考文献
青木重吉 関連記事
豊臣秀長の与力であった青木重吉に関しては以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
青木重吉 参考文献
今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
