べらぼう 御三卿(ごさんきょう)とは 家系図でわかりやすく説明

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御三卿(ごさんきょう)とは

田安家・一橋家・清水家で構成される御三卿

御三卿(ごさんきょう)は、江戸時代中期以降に設立された徳川将軍家の分家で、田安家(たやすけ)・一橋家(ひとつばしけ)・清水家(しみずけ)のことを指します。

この3家は将軍家を補佐し、徳川宗家に次期将軍の血統が途絶えたときに、代わって将軍の世子を後輩出する役割を担いました。

またこれら3つの家は、御三家(紀州藩・尾張藩・水戸藩)と違って、決して大名家ではありません。「将軍の部屋住み」と言う立場で、住まいは江戸城内の屋敷にあり、10万石の大名と同じ格式がある家として扱われました。

田安徳川家(たやすとくがわけ)

  • 成立: 1731(享保16)年
  • 初代当主: 徳川宗武(とくがわむねたけ) 八代将軍・徳川吉宗の次男
  • 輩出した有名人: 松平定信(田安賢丸)(白河藩藩主)・松平春嶽(福井藩藩主)

一橋徳川家(ひとつばしとくがわけ)

  • 成立: 1735(享保20)年
  • 初代当主: 徳川宗尹(とくがわむねただ)八代将軍・徳川吉宗の四男
  • 輩出した有名人: 徳川家斉(一橋豊千代)(徳川十一代将軍)・徳川慶喜(徳川十五代将軍)

清水徳川家(しみずとくがわけ)

  • 成立: 1749(寛延2)年
  • 初代当主: 徳川重好(とくがわしげよし)九代将軍・徳川家重の次男

御三卿が創設された背景

御三卿が創設される以前から徳川家には、将軍家に次ぐ家格を持ち、なおかつ将軍の血統が絶えたときには、将軍世子を送り込める、紀州・尾張・水戸の「御三家」という大名家がありました。

八代将軍・徳川吉宗自身も徳川宗家の出身ではなく、御三家の1つである紀州藩主から八代将軍に就任した人物です。にもかかわらずその吉宗自身が新たに御三卿を創設した理由は、

  • 御三家が初代将軍・徳川家康の流れを汲むとはいえ、現在の将軍からすると血が遠くなってしまった
  • 吉宗自身が自分に近い血筋で将軍の嫡流を固めたかった

という意向があったと考えられています。

べらぼうに登場する御三卿の登場人物たち

徳川宗家と田安徳川家・一橋徳川家・清水徳川家の家系図

大河ドラマ「べらぼう」の時代に登場する徳川宗家と御三卿の関係図です。八代将軍・徳川吉宗が、4つの家の始まりとなります。

徳川家治(とくがわいえはる)(眞島秀和)

徳川家十代将軍。八代将軍・徳川吉宗の孫にあたります。

徳川家基(とくがわいえもと)(奥智哉)

徳川家治の息子。十代将軍・徳川家治の後継者でありましたが、1779(安永8)年に突然死去します。

田安賢丸(たやすまさまる)(寺田心)

徳川宗武の次男で、徳川吉宗の孫。1777(安永6)年に陸奥国白河藩・松平貞邦の養子に出されて松平定信を名乗り、将軍の後継者になる資格を失います。

田安治察(たやすはるあき)(入江甚儀)

徳川宗武の長男で、徳川吉宗の孫。田安家第二代当主。1774(安永3)年に死去

一橋治済(ひとつばしはるさだ)(生田斗真)

徳川宗尹の四男で、徳川吉宗の孫。一橋徳川家第二代当主。徳川十一代将軍・徳川家斉の実父。

一橋豊千代(ひとつばしとよちよ)

一橋治済の長男でのちに徳川十一代将軍・徳川家斉。徳川家基の死後、江戸城西の丸御殿に住むようになります。

清水重好(しみずしげよし)(落合モトキ)

九代将軍・徳川家重の次男で、清水徳川家初代当主。

田沼意次と関係が深かった一橋家

田沼意次の弟と甥が一橋家の家老だった

のちに十一代将軍の徳川家斉を輩出した一橋家と田沼意次は、浅からぬ関係を持っていました。

意次の弟である田沼意誠(おきのぶ)は、一橋家の家老職を務め、その息子(意次にとっては甥)の意致(おきむね)も、意誠の死後にやはり同じく家老職を務めています。

一橋豊千代が江戸城西の丸御殿に

徳川家基の死後、十代将軍・家治は将軍後継者の選定を田沼意次に命じます。「御三卿から次期将軍を選ぶ」という新ルールを適用した結果、一橋豊千代が後継者に選ばれることになりました。

おそらくこの選定作業には、上述した田沼意次と一橋家の深い関係が働いたと考えられます。

べらぼう 15話・16話と御三卿

徳川家基 突然の死

べらぼう15話で次期将軍の予定であった徳川家基が鷹狩りの最中に亡くなります。江戸城内では田沼意次の謀(はかりごと)ではないかと噂されますが、将軍・家治は老中の松平武元(石坂浩二)と田沼意次(渡辺謙)に、家基の死の真相を明らかにすることを命じます。

徳川家基は毒殺されたのか?

田沼意次が調べていると、家基が鷹狩りをするときに使っていた手袋に毒が仕込まれているのではないかと言う仮説が浮かび上がります。

その手袋は意次が大奥を経由して家基に贈ったものですが、誰かがその手袋に毒を塗り込んだのではないかと、意次は聞かされます。

徳川家基 毒殺の真犯人は?

ここで重要な点は、べらぼうでは意次は決して毒などを仕込んでいないと言う設定にしていることです。

日頃、田沼意次を嫌っている松平武元さえ、家基の死は意次によるものではないと考えています。むしろ家基の死によって直接利益があるのは一橋家か清水家で、そのどちらかが関わっていると松平武元は考えています。

松平武元 毒殺による死

しかし松平武元は田沼意次と将軍継嗣に関する協議をした後に毒殺をされます。そんな武元を殺したのも田沼意次であるという噂が江戸城内に駆け巡ります。

田沼意次は松平武元の毒殺には関わっていないようで、徳川家基の死に続く松平武元の死で、謎は一層深まります。

徳川家基・松平武元毒殺の真犯人は一橋治済か

べらぼうのガイドブック「べらぼう~蔦重栄華乃夢噺~ 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)」によると、一橋治済扮する生田斗真さん自身が、一橋治済を「大きな悪のような存在」と表現し、家基の死で一番得するのは一橋治済であるとおっしゃっています。

徳川家基の死も松平武元の死も、御三卿・一橋家の当主である一橋治済が関わっていると考えられますが、どうやって殺害に関わったのか、今後の展開が気になるところです。

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