べらぼう 九郎助稲荷 五十間道 蔦屋 駿河屋 どこにあった?

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吉原(新吉原)の概略図

九郎助稲荷・五十間道・蔦屋・駿河屋は吉原のどこにあった?

大河ドラマ「べらぼう」を見ていると、1話で火事のために蔦谷重三郎が背負って逃げた九郎助稲荷(くろすけいなり)は吉原のどこにあったのか気になるでしょう。

そこで今回の記事では「べらぼう」に登場する吉原の道案内を記した「新吉原概略図」を用意しました。九郎助稲荷以外にも、

  • 衣紋坂(えもんざか)はどこにあった?
  • 見返り柳(みかえりやなぎ)はどこにあった?
  • 五十間道(ごじっけんみち)はどこにあった?
  • 蔦屋(つたや)はどこにあった?
  • 耕書堂(こうしょどう)はどこにあった?
  • つるべ蕎麦(つるべそば)はどこにあった?
  • 大門(だいもん)はどこにあった?
  • 面番所(めんばんしょ)はどこにあった?
  • 四郎兵衛会所(しろべえかいしょ)はどこにあった?
  • 駿河屋(するがや)はどこにあった?
  • 松葉屋(まつばや)はどこにあった?
  • お歯黒どぶ(おはぐろどぶ)はどこにあった?
  • 浄念河岸(じょうねんかし)はどこにあった?

というニーズに応えられるでしょう。

新吉原概略図

九郎助稲荷(くろすけいなり)

吉原の南東にあった稲荷。縁起は711(和銅4)年で降臨した黒狐と白狐のうち、黒狐の方を千葉九郎助の勧請で祀ったことから始まったと言われています。

「べらぼう」のナレーション・「九郎助稲荷」こと綾瀬はるか

なお大河ドラマ「べらぼう」では女優の綾瀬はるかさんが、九郎助稲荷としてドラマの語りをつとめています。

衣紋坂(えもんざか)

日本堤に通じる坂。この坂を下ると五十間道に入ります。

見返り柳(みかえりやなぎ)

吉原遊廓の入り口付近に生えた柳の名称。遊廓で遊んだ男が、帰り道に柳のあるあたりで、名残を惜しんで後ろを振り返ったことから。

五十間道(ごじっけんみち)

吉原唯一の入り口である大門(だいもん)に直接通じる道で、日本堤と接する衣紋坂(えもんざか)を登ったところにあります。道の両側には遊客を目当てとした引手茶屋や小料理屋などが、数多く並んでいたと言われています。

蔦屋(つたや)

五十間道に並んでいた引手茶屋の1つで、吉原に入ろうとする客から見ると左側に蔦屋があったと言われています。

ちなみに「べらぼう」の1話では、蔦谷重三郎の義兄・次郎兵衛(中村蒼)が茶屋の経営を行い、蔦屋重三郎(横浜流星)は、その手伝いをしているということになっています。

耕書堂(こうしょどう)

鱗形屋孫兵衛が吉原細見を出版できなくなった後、1775(安永4)年の春から夏の頃にできた最初の耕書堂は蔦屋と同じ位置にあると考えられます。この耕書堂は現代風に言えば本の小売店という位置付けです。

日本橋通油町の「耕書堂」について

なお蔦屋重三郎が、板元として地本問屋「耕書堂」を日本橋通油町に店を構えるのは、1783(天明3)年9月のことです。

こちらの「耕書堂」は、特定のジャンルの本については販売だけでなく、出版と流通も独占した出版社に相当します。

つるべ蕎麦(つるべそば)

五十間道にある蔦屋の向かいにあるそば屋。主人は半次郎(六平直政)。

大門(だいもん)

吉原唯一の入り口。町奉行配下の同心や岡っ引きが常駐していた面番所(めんばんしょ)や、女郎の逃亡を防ぐ目的で設置され、番人が常駐する四郎兵衛会所(しろべえかいしょ)などがありました。

仲の町(なかのまち)

吉原の廓内を南北に走る町で一番のメインストリート。

松葉屋(まつばや)

大見世の女郎屋は主人は松葉屋半左衛門。松葉屋は江戸町一丁目にあるという設定。

駿河屋(するがや)

吉原の東西の町で挟まれたように通っている、メインストリートである「仲の町(なかのちょう)」に面して、蔦谷重三郎の養父・駿河屋市右衛門(高橋克実)が営む駿河屋があると考えられます。

お歯黒どぶ(おはぐろどぶ)

吉原の四方を囲む堀のこと。堀とは本来、城や砦の防衛施設で敵軍の襲撃を防ぐ目的で作られたものです。

しかし吉原を取り囲んでいる堀は、不審者の侵入を防ぐという意味もあったでしょうが、年季奉公が明けていない女郎たちが「足抜け」すること、つまり主人に無断で脱走をすることを防ぐ意味合いの方が大きかったでしょう。

お歯黒どぶと呼ばれるゆえん

「お歯黒どぶ」という呼び名は、女郎たちが使い終わったお歯黒を堀に投げ捨てていたことから来ていると考えられています。

浄念河岸(じょうねんかし)

吉原の西側のお歯黒どぶ沿いにあった切見世(きりみせ)が並んだエリアのこと。切見世とは遊郭の中でも最低ランクの女郎たちを集めていた女郎屋。

反対側の東のお歯黒どぶ沿いには羅生門河岸という切見世のエリアもありました。

切見世(きりみせ)のゆえん

切見世とは「時間を切り売りする」ことから来ています。切見世の揚代(女郎に支払う料金)は百文程度(約4,700円)で、大見世の最高クラスの女郎である「花魁」に支払う揚代に比べると、50分の1程度であったと言われています。

切見世女郎に支払う料金

ちなみに当時、蕎麦屋で食べることができたかけそばは、1杯十六文であったと言われています。切見世女郎へ支払う揚代(遊ぶために支払う料金)はかけそば6杯から7杯程度に相当することになります。

なお「べらぼう」では切見世として、きく(かたせ梨乃)が女将をつとめる「二文字屋」が登場します。

なぜ「べらぼう」の吉原を「新吉原」と呼ぶのか?

元吉原(もとよしわら)とは

吉原遊郭の成立は1618(元和4)年です。最初の用地は、日本橋・葺屋町(ふきやちょう)(現在の東京都中央区人形町・堀留町周辺)にありました。

それ以前は、江戸市中のあこちに遊郭が散在している状態でした。幕府は治安維持の観点から遊郭を1箇所にまとめる方が都合が良いという結論に達して、葺屋町に「元吉原(もとよしわら)」ができあがりました。

ちなみにこの時に吉原以外での遊女商売は禁止とされ、元吉原の誕生以降、女郎屋や揚屋などの仲介業者は、遊郭での商売を独占することになります。

元吉原から新吉原へ

以前は葦(よし)に囲まれ人目につかないような場所にあった葺屋町の元吉原でしたが、江戸の人口増加に伴い、遊郭が人目にさらされることが多くなりました。

これによって社会の風紀が緩むことを懸念した幕府は、元吉原に場所の移転を提案します。

移転先候補地として、隅田川東岸にある本所と、浅草寺裏手にある日本堤の2案が提示され、元吉原の業者たちは日本堤の方を選択します。

蔦屋重三郎の生まれ育った吉原とは新吉原

こうして元吉原は1657(明暦3)年に浅草寺裏手にある日本堤に移転し、この地を「新吉原(しんよしわら)」としました。

よって1750(寛延3)年生まれの蔦谷重三郎が生まれ育った吉原とは、厳密には「新吉原」のことを指します。

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