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豊臣秀長 子供 千丸(仙丸)のちの藤堂高吉 秀長の最初の養嗣子

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秀長の養嗣子に迎えられ養嗣子の座を奪われた千丸

羽柴秀長の最初の養嗣子・千丸

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長仲野太賀)は、正室(正妻)である慈雲院(「豊臣兄弟!」の慶)との間にできた嫡男の羽柴与一郎(木下与一郎)が1582(天正10)年に亡くなったのち、養嗣子を迎えます。

その養嗣子とは丹羽(惟住)長秀の三男・千丸(仙丸)でした。のちの藤堂高吉(1579~1670年)です。

羽柴家・丹羽家の都合で秀長の養子となった千丸

羽柴与一郎が亡くなった同じ年に羽柴秀吉池松壮亮)・秀長にとって主君にあたる織田信長(小栗旬)が本能寺において明智光秀(要潤)によって討ち取られます。

明智討伐後に行われた「清須会議」では信長亡き後の、跡目相続や領地配分など織田家の主導権争いが話し合われました。このとき羽柴秀吉はこの主導権争いを有利に進めるため、丹羽長秀の三男・千丸を弟・羽柴秀長の養嗣子とする養子縁組を行います。

織田家重臣の一角を占める丹羽長秀の力を取り込むことによって、羽柴秀吉は織田家における政治的地位が上がり、領国配分だけでも山城と丹波の2カ国を取り込むことに成功。

ちなみに千丸が秀長の養嗣子となる際に、杉若無心が秀長の家老としてやってきます。杉若無心の娘は丹羽長秀の妾で、その女性が千丸の母親であった関係で、丹羽家から羽柴秀長家に移ってきたのでしょう。

豊臣一門の都合で秀長家から藤堂家の養子に

羽柴や丹羽といった「清須会議」における織田家重臣たちの都合で、羽柴秀長の養嗣子となった千丸でしたが、今度は豊臣一門衆の都合で養嗣子の座から追い出されてしまいます。

1588(天正16)年、秀長は姉・瑞竜院殿(とも)(宮澤エマ)の三男である鍋丸(のちの豊臣秀保)を養嗣子として迎えます。「羽柴秀長の生涯」の188ページによると、この決定は秀吉による命令であったと推定されています。

丹羽家はすでに豊臣家に完全に従属する形になっていました。豊臣出身でない人間が一門衆筆頭の養嗣子であることは望ましくない、という秀吉による政治的打算が働いたのでしょう。

千丸改め藤堂一高に のちに高吉と改名

秀長の養嗣子の座から追い出された千丸を引き取ったのは、秀長の重臣の一人である藤堂高虎佳久創)でした。当時、藤堂高虎には嫡男がなく、千丸を藤堂家の養嗣子に迎えます。

1593(文禄2)年12月、千丸は藤堂一高(かつたか)を名乗り元服し。朝廷から従五位下・宮内少輔に叙任。秀長の後継者である豊臣秀保の重臣として活躍することになります。

その後、藤堂高虎に実子の高次が誕生したことで一高は廃嫡され「高吉(たかよし)」と改名。伊賀国名張(現在の三重県名張市)で2万石を有する伊勢津藩の家老として存在するようになりました。

豊臣秀長 子供 羽柴与一郎 関連記事と参考資料

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豊臣秀長には3人の実子と3人の養子がいました。その子供たちに関する記事は以下のものとなります。

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豊臣秀長が生涯のうちに得た実子3人(羽柴与一郎・秀保の妻・きく)と養子3人(岩・千丸・豊臣秀保)を一覧表形式にしてまとめた内容については下記の記事を参考にしてください。

豊臣秀長 子供 羽柴与一郎 参考資料

「豊臣秀長 子供 千丸(仙丸)のちの藤堂高吉 秀長の最初の養嗣子」の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。柴裕之さんと黒田基樹さんは、いずれも2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

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