大河ドラマ「豊臣兄弟!」で描かれる前田利家(まえだとしいえ)は、賤ヶ岳の戦いで柴田勝家を裏切って羽柴秀吉に味方した武将として知られています。
ではなぜ前田利家は戦の真っ最中に柴田勝家を裏切ったのでしょうか?
この記事では前田利家と柴田勝家・羽柴秀吉との関係や、賤ヶ岳の戦いで戦場から無断で離脱し裏切った理由についてわかりやすく解説します。
▼ 要点まとめ
・前田利家は柴田勝家の与力武将だった
・賤ヶ岳の戦いで戦線から無断で離脱し裏切り
・秀吉の養女となった豪姫の存在も重要
・裏切りの理由には複数の説がある
・「豊臣兄弟!」では独自の解釈で描かれる可能性がある
→ 賤ヶ岳の戦いとは?わかりやすく解説
→ 柴田勝家とは?
→ 豊臣兄弟! の豪姫とは?
結論|前田利家はなぜ柴田勝家を裏切ったのか?
前田利家が、1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた賤ヶ岳の戦いにおいて、柴田勝家を裏切った理由は現在も明確には分かっていません。
有力な説としては、
・秀吉と事前に通じていた説
・柴田軍の敗北を見て離脱した説
・前田家の存続を優先した説
などがあります。
一方、「豊臣兄弟!」では単なる裏切りではなく、「信長の天下統一事業を誰が継ぐのか」という視点から、前田利家が秀吉を選んだ人物として描かれる可能性があります。
→ 賤ヶ岳の戦いとは?わかりやすく解説
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→ 豊臣兄弟! の豪姫とは?
豊臣兄弟!での前田利家
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では大東駿介さんが前田利家を演じています。
「豊臣兄弟!」の前田利家は31話「これで、お別れにございます」から32話「賤ヶ岳の決闘」にかけて、柴田勝家と羽柴秀吉の間で揺れる武将として描かれます。
31話「これで、お別れにございます」
31話「これで、お別れにございます」において、「清須会議」後の織田家は、
・羽柴秀吉
・織田信雄
を中心とする勢力と、
・柴田勝家
・織田信孝
を中心とする勢力に分裂。
前田利家(大東駿介)は羽柴秀吉(池松壮亮)の横暴な振る舞いに我慢がならず、ますます柴田勝家(山口馬木也)と織田信孝(結木滉星)の陣営に肩入れするようになります。
→ 柴田勝家とは?お市との結婚や賤ヶ岳の戦いを解説
→ 織田信孝とは誰?
→ 豊臣兄弟! 31話「これで、お別れにございます」あらすじ
32話「賤ヶ岳の決闘」
32話「賤ヶ岳の決闘」の前半において、秀吉は利家の居城である能登の七尾城を訪問。
前田利家に対して「豪姫を養女として迎えた恩義」を持ち出して自分に味方してくれることを頼みます。このときの利家は秀吉の誘いを拒否。
ところが32話の後半に描かれる賤ヶ岳の戦いでは、佐久間盛政が苦戦しているにも関わらず救援を送らず、総大将の柴田勝家の断りなしに無断で退却します。
この「前田利家の裏切り」とも言える無断の戦線離脱によって柴田勢は全軍が崩壊。勝家は本拠地である越前・北庄城に追い詰められることに。
→ 豊臣兄弟!32話「賤ヶ岳の決闘」あらすじ(準備中)
前田利家と柴田勝家の関係
前田利家は柴田勝家の与力武将だった
賤ヶ岳の戦いの前における前田利家は、能登を治める独立した大名でしたが、織田家内部では柴田勝家の指揮下にありました。
北陸方面軍の司令官は柴田勝家であり、
・前田利家
・佐々成政
・不破勝光
・金森長近
らは勝家の与力武将として活動していました。
そのため前田利家は1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた、賤ヶ岳の戦いでも柴田勢の大将の1人として参戦しています。
なぜ前田利家は柴田勝家に従ったのか?
織田信長は1573(天正元)年8月下旬に朝倉義景を滅ぼしたのち、1575(天正3)年9月から重臣の柴田勝家に越前一国8郡49万石の統治を任していました。
1576(天正4)年になると信長は勝家の与力武将として、前田利家・佐々成政・不破光治らを配属。
これ以降、前田利家は加賀・越中の一向宗徒や越後の上杉謙信・上杉景勝らと対峙するために北陸地方の各地を転戦することになりました。
こうした経緯もあり、前田利家が賤ヶ岳の戦いにおいて柴田勢に加勢することは、表面上ごく自然な流れだったと言えるでしょう。
前田利家と豊臣秀吉の関係
若い頃からの旧知の仲
前田利家と秀吉は、若い時代からともに織田信長に仕えた武将です。
年齢も近く、
・前田利家(1538年生)
・羽柴秀吉(1537年生)
とほぼ同世代でした。
「豊臣兄弟!」の前田利家と羽柴秀吉はともに身分が低いときから、ともに出世を競うライバル同士という関係として描かれています。
実際の利家と秀吉の若い頃の関係も、やはりドラマの描写のような関係だったと考えられるでしょう。
豪姫は秀吉・寧々夫妻の養女だった
さらに前田利家とその正室・まつとの間にできた四女・豪(ごう。豪姫とも呼ばれる)は、幼少期には秀吉と寧々の養子になっています。
豪は遅くとも、賤ヶ岳の戦いが始まる3年前である、1579(天正7)年までには秀吉・寧々夫妻と養子縁組をしていたと考えられています。
つまり前田利家と羽柴秀吉は「同僚」や「出世を競うライバル」という関係だけではなく、「プライベートでは仲が良かった」と言っても良いほどの付き合いもあったのです。
→ 豊臣兄弟! の豪姫とは?(準備中)
→ 秀吉と寧々の養子たち 於次丸秀勝・豪姫・小姫・秀俊
前田利家はなぜ柴田勝家を裏切ったのか?
前田利家が賤ヶ岳の戦いにおいてなぜ柴田勝家を裏切り、羽柴秀吉に味方したかについてはいくつかの説があります。
- 秀吉との密約説
- 戦場での敗戦を見た現実的判断説
- 織田信長の天下統一継承説
今回の記事では3つの説を順に紹介します。
1. 秀吉との密約説
堺屋太一氏の小説「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」によると、1582(天正10)年11月ごろ、柴田勝家は秀吉と政治交渉をするため、
・前田利家
・金森長近
・不破勝光
の3人を使者として山崎城へ派遣しました。
使者の目的は、秀吉の軍事行動を雪解けになる春の季節まで遅らせる時間稼ぎをするための策でしたが、逆に秀吉は3人を取り込みに成功。
「秀吉との密約説」によると、前田利家はかなり早い段階で羽柴秀吉と内通していたことになります。
2. 敗戦を見た現実的判断説
豊臣秀吉の研究で知られる、國學院大学名誉教授の故・桑田忠親氏の著作「豊臣秀吉研究 上」では少し違う見方が示されています。
この説は、前田利家は賤ヶ岳の戦い当日に佐久間盛政が敗走する様子を見て柴田勝家を裏切ったように説明。
利家は秀吉との「旧交」に甘えて降伏し、北庄城までの道案内役を務めたとされています。
「敗戦を見た現実的判断説」によると、前田利家が裏切った理由は「勝者を見極めて前田家を守った現実主義者だった」ということになるでしょう。
もっとも桑田忠親名誉教授の説明では「旧交」とありますので、前田利家の四女・豪が羽柴秀吉の養子になっていたという点も見逃せません。
3. 織田信長の天下統一継承説
「豊臣兄弟!」ではさらに異なる解釈になる可能性があります。
NHKが公表している「豊臣兄弟!」の公式ガイドブックに掲載されている、32話「賤ヶ岳の決闘」のあらすじを読む限り、利家は秀吉の誘いを最初は拒否しています。
もし最初から秀吉と通じていたなら、この場面は必要ないでしょう。
そのためドラマでは、
・勝家への義理
・信長の遺志
・天下統一事業
の間で葛藤した結果、「信長の事業を継げるのは秀吉である」と判断した人物として描かれる可能性があります。
賤ヶ岳の戦いで前田利家は何をしたのか?
柴田勝家の甥・佐久間盛政が攻勢に出る
1583(天正11)年4月20日、佐久間盛政が羽柴秀吉が2万の本隊を率いて岐阜方面に転戦している隙を突いて、弟・羽柴小一郎長秀らが守る城砦に対して攻撃を開始。
当初は佐久間盛政は柴田勝家以上の「猛将」として知られており、緒戦において柴田勢有利で戦闘を進めていたようです。
秀吉の美濃大返しで戦局が逆転
ところが秀吉は岐阜方面から驚異的な速度で北近江の戦場に帰還。
佐久間盛政は転戦した秀吉の本隊が戻ってくるまでに2日はかかると予想していたところ、秀吉はわずか1日で賤ヶ岳の主戦場にまで戻ってきたのです。
「美濃大返し」とも言われる秀吉の素早い軍事行動により形勢が一気に逆転。
佐久間盛政と羽柴秀吉の本隊が賤ヶ岳で交戦
当時、佐久間盛政は羽柴勢が守る2つの砦を同時に攻撃していましたが、急遽攻撃を中止。
自陣に退却して柴田勝家が率いる本隊との合流を図ろうとしますが、秀吉率いる2万の本隊が賤ヶ岳で急追。
盛政の後方部隊はやむを得ず戦闘を開始し、柴田勢の本陣がある柳ヶ瀬方面への撤退が遅れます(賤ヶ岳の戦い)。
一方、秀吉の本隊が佐久間盛政と交戦している隙に、今度は小一郎が率いる部隊が、柳ヶ瀬に陣取る柴田勝家の本陣をめがけて北上。
前田利家の無断退却
賤ヶ岳で佐久間盛政と羽柴秀吉が交戦していたとき、前田利家と前田利長の親子は、
・別所山砦
・天神山砦
に配置されていました。
この2つの砦は、佐久間盛政と柴田勝家が守る本陣の中間に位置し、本来は戦線全体を支える役割があったのです。
ところが佐久間盛政が退却し、小一郎が柴田勝家の本陣を目指して北上してきても、2つの砦は何の抵抗もしません。
それどころか前田親子の部隊は総大将である勝家に対して何の連絡もなく、無断退却まで始める始末です。
さらに前田親子の近くに配置されていた林谷山砦の守将・不破勝光と、橡谷山砦の守将・金森長近も無断で戦線から退いていきます。
前田利家は本当に裏切り者だったのか?
前田利家の個人的な資質から分析
前田利家が本当に裏切り者だったかどうかという評価は現在も分かれています。
柴田勝家の立場から見れば明らかな裏切りです。一方で前田家の立場から見ると、「勝ち目のない戦いから離脱して家を守った」とも言えます。
そのため歴史研究においても、
・狡猾な武将
・現実的な武将
・先見の明があった武将
など評価は一定していません。
柴田勝家の与力武将としての側面から分析
柴田勝家が織田信長によって北陸方面司令官に任じられたとき、勝家のもとに配属された与力武将たちをもう一度確認してみましょう。
・前田利家
・佐々成政
・不破勝光
・金森長近
柴田勝家の与力武将たちの素性をたどると、元をただせば織田家の直臣です。
彼らは柴田勝家にとって「譜代の家臣」という立場にはありません。「信長に義理はあっても勝家には義理はない」とする言い訳も可能でしょう。
かつて山崎の戦いではそれまで明智光秀の与力武将であった中川清秀や高山右近が、光秀を裏切って秀吉に加勢していました。
その事実を踏まえると、前田利家が柴田勝家を裏切ることは、当時の常識としてはそう珍しいことではないでしょう。
賤ヶ岳の戦い後の前田利家
賤ヶ岳の戦い後、
・柴田勝家
・お市
は北庄城で自害しました。
一方の前田利家は秀吉に臣従。以後は豊臣政権下では五大老の1人として徳川家康に匹敵するほどの重鎮として扱われるようになります。
FAQ|前田利家の裏切り
Q. 前田利家は本当に裏切ったのですか?
A. 結果的には柴田勝家を見捨てて秀吉に降伏しています。そのため一般には「裏切り」と評価されます。
Q. 前田利家はなぜ秀吉についたのですか?
A. 密約説、現実的判断説、前田家の存続説など複数の説があります。
Q. 豪姫は前田利家の娘ですか?
A. はい。四女の豪姫は秀吉・寧々夫妻の養女となりました。
Q. 前田利家と豪姫はどんな関係ですか?
A. 豪姫は前田利家とまつの四女です。幼少期に秀吉・寧々夫妻の養女となりました。
Q. 前田利家はなぜ柴田勝家を裏切ったのですか?
A. 明確な理由は分かっていませんが、秀吉との関係や戦況判断が大きな要因だったと考えられています。
Q. 前田利家と秀吉の関係は?
A. 若い頃からの旧知の仲であり、豪姫の養子縁組によってさらに結び付きが強まりました。
前田利家に関連する人物たち
柴田勝家: 前田利家の寄親
柴田勝家は1576(天正4)年ごろから、前田利家を配下の与力武将として北陸地方の各地を転戦しました。
豪(豪姫): 前田利家の四女で秀吉の養子
豪(豪姫)はもとは前田利家・まつ夫妻の四女でした。
遅くとも1579(天正7)年ごろまでには秀吉・寧々夫妻の養女となっていました。
→ 豊臣兄弟!の豪(豪姫)とは?
→ 寧々に子供はいたのか?豪姫との関係を解説
前田利家に関連する歴史的事件
賤ヶ岳の戦い
賤ヶ岳の戦いは1583(天正11)年4月20日・21日にかけて行われました。
賤ヶ岳の戦いの本質とは、「羽柴秀吉VS柴田勝家・織田信孝の最終決戦」という意味合いが強い戦いでした。
豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ
豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。
→ 豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説
豊臣兄弟!最終回までのネタバレ
「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。
→ 豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説
参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 後編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (角川選書 1403)
- 黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書)
- 堺屋太一 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)
- 河内将芳 図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石 戎光祥出版
