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吉川平介(吉川平助) 豊臣秀長の家臣 豊臣家の山奉行

yoshikawaheisuke
目次

吉川平介(吉川平助)の名前について

吉川平助とは

吉川平助(よしかわへいすけ)(?~1588年)は、は、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長仲野太賀)の家臣の1人で、紀伊雑賀(きいさいか)城主として7,000石の領地を有していました。

吉川平助は秀長の家臣としては紀伊国の紀伊湊(きのみなと)(現在の和歌山市)から伊勢国の大湊(現在の伊勢市)までの船奉行を務めて海運を管轄し、さらに豊臣秀吉の家臣としては紀伊国熊野地方の山奉行を任された存在です。

「吉川平助」か「吉川平介」か

インターネット上で吉川平助について調べていると、「吉川平介」と言う記述を見かけます。実は吉川平助という人物の説明に関して「多聞院日記」には以下のような記述があります。

平介ト云人、大納言殿ヨリ紀伊国ノ大将トシテ、サイカニ城拵、富貴シテアリシ(天正十六年十二月七日条)

柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版 374ページ

(現代語訳)
平介(吉川平助)という人、大納言殿(豊臣秀長のこと)より紀伊国の大将として任され、雑賀に城をこしらえて、とても金持ちであった。

内容はともかくとして吉川平助の名前に関して「平介」という文字が当てられていることが分ります。

一方、「吉川平助」と言う書き方は「譜牒余録」に基づくものと考えられ、「吉川平助」も「吉川平介」も間違いではなさそうです。

ただ今回の記事を書くにあたって参考とした「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」と「羽柴秀長とその家臣たち」はいずれも「吉川平助」としているため、この記事でも「吉川平助」と表記しています。

吉川平助の出自と家族

吉川平助の出自

江戸時代の近江国長浜に吉川三左衛門と言う有力商人が存在し、吉川平助と同族の者と考えられています。吉川平助は1581(天正9)年の時点で豊臣秀吉の家臣として存在したことから、元は長浜の有力商人であった可能性が高いとされています。

吉川平助のエピソードの1つとして織田信長の時代からすでに紀伊湊から大湊までの船奉行を務めていたものがありますが、「羽柴秀長とその家臣たち」の49ページによると、この逸話が実話であるかどうかについては否定的です。

吉川平助の家族

吉川平助には平介の死後に仕えた二代目吉川平助がいます。

また平介の孫には町人に転じた庄兵衛と、さらにひ孫で京都三条菱屋町(現在の京都市中京区菱屋町付近)に住んだ松屋庄太夫の存在が確認されています。

秀吉・秀長の治世における吉川平助の動向

豊臣秀長の船奉行

吉川平助は豊臣秀長の家臣ですが、元々は兄・豊臣秀吉の直臣だったようです。

秀吉による因幡国の鳥取城攻めに際し、平助は但馬国城崎郡竹野浜(現在の兵庫県豊岡市)に派遣され、同浜衆を水主として動員し、その指揮を任されていました。

平助がいつごろ秀長の直臣に転じたかは分りません。ただ1585(天正13)年に紀伊雑賀城を任されたときには、水運に長けた人材として認識されたことから、秀長の船奉行を務めたのかもしれません。

羽柴秀長とその家臣たち」によると、吉川平介は船奉行として1586(天正14)年ごろに、徳川家康を紀伊湊から大湊まで送り届けたとしています。

「材木売買事件」により秀吉から斬首刑に処される

豊臣秀吉や豊臣秀長から信頼を得ていたと考えられる吉川平助ですが、1588(天正16)年に世間を震撼させる経済事件を発生させています。

同年12月7日付の「多聞院日記」は、吉川平助が熊野地方で伐採した材木2万本を大坂において不当な高値で売り付けことを罪に問われ、秀吉によって斬首されたと伝えているのです。

熊野山ノ木ヲ売ヘキ由被申付、二万本ヱリ切テ大坂へ遣、ウリテ代金毎月過分ニ上之、関白殿へ被聞、曲事トテ被召捕、一昨日五日於西大寺被誅了。主ニハ一円無過事也。大納言殿天下ノ面目失儀也。跡二金子七百枚持テ上之云々。

柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版 374ページから引用

(現代語訳)
熊野の山の木を伐って売るようにとの命令があり、二万本を選んで伐採し、大坂へ送り出した。
その木を売って得た代金は毎月過剰であり、このことが関白殿(秀吉のこと)の耳に入り、「不正な行いである」として(吉川平助は)捕らえられた。
一昨日、すなわち五日に(奈良の)西大寺において処刑された。
主君にはまったく罪はなかったが、大納言殿(秀長のこと)はこの件で天下に対して面目を失うこととなった。平助が貯めていた金七百枚を献上したという。

斬首された吉川平助の首は奈良から京に送られて、見せしめのために六条河原でさらされたことが、在京中の島津義弘が国許の家臣・伊地知重秀に宛てた手紙の中で確認できます。

不明な点が多い「材木売買事件」

しかし事件の後始末については不可解な点が多いとされています。

上述した12月7日付の「多聞院日記」には続きがあり、「女・子供ハ不苦云々」と書かれています。「(吉川平助の)女・子供には罪が及ばない」とされています。

秀吉を激怒させて斬首刑に処されたほどにもかかわらず、処罰の対象は平助一人にとどまっており、その一族についてはお咎めがなかったのです。実際、平助の子供である二代目平助はそのまま豊臣秀長に仕えていたようです。

さらに事件の翌年の1589(天正17)年1月には、秀長は秀吉に事件の謝罪をするため大坂城を訪問しますが、秀長は謝罪どころから面会さえ許されませんでした。

ただ秀吉の秀長に対する怒りはすぐに解け、秀長には対する追及はなかったようです。なお処刑された吉川平助の後任として、秀長の有力家臣である藤堂高虎羽田正親があてられています。

豊臣秀保死後の二代目吉川平助の動向

1591(天正19)年1月21日、豊臣秀長が大和郡山城で病死し、豊臣秀保も1595(文禄5)年4月16日に病死。

秀保には後継者がいなかったため、紀伊・大和を領国とする「大和大納言家」は断絶します。このとき豊臣秀保に仕えていた多くの家臣たちは秀吉の直臣となりますが、二代目吉川平助は浪人をします。

やはり先代の吉川平助による「材木売買事件」がたたったのかもしれません。そのため二代目吉川平助の子供である庄兵衛は武士をやめて町人に転じました。

吉川平助 関連記事と参考文献

吉川平助 関連記事

豊臣秀長・豊臣秀保の二代にわたって仕えた羽田正親に関しては以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

吉川平助 参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の柴裕之さんと黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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