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杉若無心 豊臣秀長の家臣 秀長養子・千丸の祖父 紀伊国の統治

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目次

杉若無心の名前について

杉若無心とは

杉若無心(すぎわかむしん)(生没年不詳)とは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長仲野太賀)の家臣の1人です。

紀伊国牟婁郡(むろぐん)(現在の和歌山県新宮市・田辺市・東牟婁郡・西牟婁郡と三重県南牟婁郡・北牟婁郡・尾鷲市・熊野市・大紀町)にあった芳養城(はやじょう)の城主(のちに田辺上野山城主)として、1万9,000石の領地を有していました。

1582(天正10)年ごろに丹羽(惟住)長秀の家臣から豊臣秀長の家臣に転じ、秀長の紀伊国統治のために3年以上にわたって行われた熊野地方北山地域(現在の和歌山県北山村付近)の制圧に尽力した人物です。

杉若無心の名前

羽柴秀長とその家臣たち」によると、杉若無心の仮名(けみょう)は「藤七郎(とうしちろう)」で「無心(むしん)」は実名であると説明されています。

また杉若無心は、秀長の「諸大夫家臣(秀長が公卿として宮中に参内するとき御所の中にまで入ることができる家来)」として1588(天正16)年4月13日に従五位下越後守に叙任されています。そのことから杉若無心の受領名は「越後守」となります。

さらに1594(文禄3)年8月には出家をしているため、「越後入道」と呼ばれることもあります。

杉若無心の出自と家族

杉若無心の出自

杉若無心は生没年が不詳であり、その出自も全くわかっていません。ただ冒頭で述べたように秀長に仕える前は、織田家の重臣であった丹羽(惟住)長秀に仕えていたことが分かっています。

豊臣秀長(当時は羽柴小一郎長秀)は、1582(天正10)年に長男・羽柴与一郎を亡くし、丹羽家との政略の兼ね合いから丹羽長秀の三男・千丸(のちの藤堂高吉)を養嗣子として迎えることになります。

千丸の母は杉若無心の娘であり、千丸が羽柴小一郎の養子として迎えられるにあたって、付家老としていわば「転籍」してきたと考えられています。

杉若無心の家族

杉若無心が丹羽長秀の元・家臣であったことから、杉若無心と千丸は祖父と孫の関係にあることが分かります。また杉若無心には、玉という名の妹と、嫡男・杉若氏宗(伝三郎・主殿助)といたことがわかっています。

秀長・秀保の家臣としての杉若無心の役割

紀伊国熊野地方北山地域の制圧

1585(天正13)年3月、豊臣秀吉は弟・秀長に対し領国として紀伊・和泉の2カ国を与えます。しかし紀伊国については初めから全域を掌握していたわけではありません。

特に熊野地方の北山地域を完全掌握するのに、紀伊国が秀長の領国として設定されてから3年以上の歳月がかかりました。中世の紀伊国が大和国と並んで「難治の地」と言われた所以です。

秀長はそんな「難治」である紀州南部の最前線に杉若無心を配置。秀長が1587(天正15)年の九州征伐の副将として東九州の戦線に出陣していたときでさえも、無心は九州には従軍せず、常に紀伊国に在国していたようです。

結局、紀州の最奥部である北山地域の掌握ができたのは、1588(天正16)年9月ごろ。このとき無心は秀長家臣の青木重吉(青木一矩)とともに、大和国の十津川方面から北山地域に進軍したと見られています。

京・聚楽第屋敷での在番と大政所の警護

熊野地方北山地域の掌握ができたのち、杉若無心は吉川平助の後任として熊野山奉行を務めていた藤堂高虎羽田正親とともに材木の搬出を行なうこともありました。

しかし常に紀伊に在国して一揆の警戒をする必要は無くなったため、京にあった秀長の聚楽第屋敷の在番を命じられ、秀吉・秀長の母である大政所(天瑞院殿)の警護にあたることもあったようです。

秀長死後の杉若無心の動向

秀長死後は秀保に仕える

1591(天正19)年1月21日、豊臣秀長が大和郡山城で病死。後継者はかねてから養嗣子として指名されていた豊臣秀保です。

代替わりをしたのちも、杉若無心は引き続き秀保に仕えます。1591(天正19)年閏1月から4月にかけて、秀吉からの命令として藤堂高虎・羽田正親とともに材木調達の任にあたっていたようです。

嫡男・杉若氏宗が朝鮮出兵に参加

1592(文禄元)年、豊臣秀保は豊臣秀吉の朝鮮出兵へ参陣するため、肥前名護屋まで1万の兵とともに進軍。

このとき藤堂高虎と紀伊国の国衆が朝鮮半島への渡海を命じられ、杉若無心の嫡男である杉若氏宗が朝鮮に上陸しています。

「大和大納言家」が断絶したのちの動向

豊臣秀保は1595(文禄5)年3月ごろから病気を患うようになり、大和国の十津川で療養をしていましたが、同年4月16日に死去。秀長・秀保の二代に渡って続いた「大和大納言家」は断絶することになります。

ただ秀保が死去したのちの杉若無心は、引き続き豊臣秀吉の直臣となり、所領もそのまま安堵。1600(慶長5)年ごろまでには家督は嫡男・杉若氏宗に譲っていたと見られます。

しかし同年9月に行われた関ヶ原の合戦では西軍に味方。徳川家康が勝利すると氏宗とともに東軍に降伏し、紀州南部の新宮城で西軍に味方した堀内氏善を攻撃するも所領は没収され、氏宗は消息不明に。

戦後の無心は京都で浪人として暮らしていたと言われています。

杉若無心 関連記事と参考文献

杉若無心 関連記事

豊臣秀長・豊臣秀保の二代にわたって仕えた杉若無心に関しては以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

杉若無心 参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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