豊臣兄弟!の与一郎(よいちろう)について
豊臣兄弟!の与一郎とは
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する与一郎(よいちろう)とは、木下小一郎長秀(仲野太賀)と慶(吉岡里帆)の間にできた子供で、木下与一郎(または羽柴与一郎)のことです。
史実においても木下与一郎は豊臣秀長とその正室・慈雲院との間にできた実子であると考えられています。
豊臣兄弟! 与一郎のキャストについて
この記事を公開した2026年2月24日の時点で、NHKは「豊臣兄弟!」の与一郎を誰が演じるか、そのキャスティングを発表していません。
「与一郎」という名前そのものが元服直後に名乗る「仮名(けみょう)」であることから、おそらく10才から13才程度の子役の方がキャストされることが予想されます。
豊臣兄弟!の与一郎の生没年
与一郎が誕生した年
豊臣秀長とその正室(正妻)・慈雲院の間にできた子供である与一郎が誕生した正確な年は分かっていません。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されている黒田基樹さんの著作である「羽柴秀長の生涯」によると、与一郎の誕生は1568(永禄11)年ごろと推定されています。
なおこの時期の秀長の行動で注目されるのは、すでに結婚し、嫡男が誕生していたとみられることである。確かな事実として確認できているわけではないが、秀長には早世した嫡男与一郎が存在していて、天正十年(一五八二)に死去していた。その時に与一郎という仮名を称しているから、すでに元服していたと考えられ、死去した年の元服としても、その時に一五歳であったとみられ、そうすると生年は永禄十一年(一五六八)と推定される。
黒田基樹. 羽柴秀長の生涯 (平凡社新書 1088) (pp. 13-14). (Function). Kindle Edition.
与一郎が誕生したとされる1568(永禄11)年という年代を「豊臣兄弟!」でのお話にすると、10話「信長上洛」で設定している年と重なります。
与一郎の死没した年
上記で引用した文章で述べられている通り、与一郎は1582(天正10)年に亡くなります。
黒田基樹さんが「与一郎は1582(天正10)年に亡くなった」と説明している根拠は、藤堂高虎の伝記を記した「高山公実録」の記録などに基づくものでしょう。
黒田基樹さんの別の著作である「羽柴秀吉とその一族」では「高山公実録」で与一郎が早逝した箇所を引用しています。
羽柴美濃守秀長公大和・泉州・紀州三カ国の大主として播州姫路より郡山へ御所替え、御実子早世に付き、秀長公但州出石に御在城の時、天正十年に丹波五郎左衛門長秀の三男千丸をご養子これ有り、
「高山公実録」がいう「御実子早世」という文言があることとから、与一郎が若くして亡くなったことを示しています。
豊臣兄弟!の与一郎 出自と家族
与一郎の出自
与一郎の父はのちに豊臣秀長と呼ばれるようになる木下小一郎長秀で、いうまでもなく父方の一族は豊臣秀吉に連なります。
一方、母・慈雲院は出自が不明です。そのため与一郎の母方の親戚かはどういう一族に連なるかよく分かりません。
「豊臣兄弟!」で慈雲院のモデルとなっている慶は、第12話「小谷城の再会」において美濃北方城主の安藤守就(田中哲司)の娘として紹介されますが、実在した慈雲院が本当に安藤守就の娘であったかどうかは、さらに検証が必要でしょう。
与一郎の家族
与一郎の家族としては父・木下小一郎長秀、母・慈雲院の他に妻の岩(いわ)(のちの智勝院)という女性がいます。岩は那古屋因幡守(なごやいなばのかみ)と養雲院殿との間にできた次女です。
ただし与一郎が早逝しているため、与一郎と岩の間には子供はいません。
豊臣兄弟 与一郎(よいちろう)関連記事と参考文献
豊臣兄弟 与一郎(よいちろう)関連記事
大河ドラマ「豊臣兄弟!」に登場する与一郎や、豊臣秀長の子供たちに関する記事については以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
豊臣兄弟 与一郎(よいちろう)参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんと柴裕之さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 柴裕之(編著)豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 黒田基樹. 羽柴秀長の生涯 (平凡社新書 1088)
