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豊臣兄弟 慈雲院とはどんな人物か 吉岡里帆の慶(ちか)とは

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豊臣兄弟!の慈雲院と慶(ちか)役の吉岡里帆について

豊臣兄弟!の慶が慈雲院のモデル

NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で語られる慈雲院(じうんいん)とは、吉岡里帆さん演じる慶(ちか)のことです。NHKは「豊臣兄弟!」の慶の役柄についてこのように設定しています。

小一郎の正妻として生涯をともに歩む 小一郎の正妻。のちの慈雲院(じうんいん)。 激動の時代を生き抜き、やがて兄嫁の寧々とともに豊臣兄弟を支える存在となる。夫の秀長が大和国の統治を任されると、ともに大和郡山城に入り、夫の晩年まで連れ添う。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新情報 – NHK

慶の役柄として説明されているようように、吉岡里帆さんが演じる慶は、豊臣秀長の正室(正妻)である慈雲院(じうんいん)(生没年不詳)がモデルになっています。

吉岡里帆さん プロフィール

「豊臣兄弟!」で慈雲院のモデルとなった慶を演じる吉岡里帆さんのプロフィールは以下の通りです。

1993年生まれ、京都府出身。2013年より俳優として活動。主な出演作に、映画『ボクサー』『明烏』『見えない目撃者』『泣く子はいねぇが』、舞台「FORTUNE」、ドラマ『ゆとりですがなにか』『カルテット』『眠狂四郎 The Final』『時効警察はじめました』など。NHKでは、連続テレビ小説『あさが来た』、『美女と男子』『京都人の秘かな愉しみ Blue修行中 祇園さんの来はる夏』、『しずかちゃんとパパ』に出演。

吉岡里帆 よしおかりほ | NHKアーカイブス

吉岡里帆さん演じる慶は、2026年3月22日放送予定12話「小谷城の再会」から登場します。

慈雲院の出自と名前

慈雲院の出自

慈雲院の出自については、父が賢松院(けんしょういん)殿、母が養春院(ようしゅういん)殿という法名があることが分かっているだけで、生没年も不明。

慈雲院殿は、秀長死後の天正十九年(一五九一)五月に高野山奥之院(和歌山県高野町)で逆修供養を行なった際に設けられた五輪塔に、「大納言北方」とみえ、なおかつ嫡男・与一郎の母であることからして、秀長の正妻であったと推察される。生没年は不詳。実名も不明である。法名として前述の五輪塔から「慈雲院芳室紹慶」が確認れる。

柴裕之(編著)豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版 総論 羽柴(豊臣秀長)の研究 34ページ

ただ長男・与一郎が1582(天正10)年に10代で亡くなった事実からして、豊臣秀長との結婚時期を推定すると1566(永禄9)年ごろになります。

その頃は秀長の兄・秀吉は織田信長の家来で侍大将、秀長自身も信長の直臣であったことを考えると、慈雲院は織田家直臣の娘であったと推定されるでしょう。

「豊臣兄弟!」の慶は美濃国にある北方城城主・安藤守就(田中哲司)の娘と設定されていますが、おそらくは史実ではなく、創作上の設定であると考えられます。

慶(ちか)と言うドラマの名前はどこから来ているのか?

上述したように「慈雲院」と言うのは法号であり、正確な名前は高野山奥之院にある五輪塔から「慈雲院芳室紹慶」とだけ伝わっています。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」における吉岡里帆さんの役名は、おそらく「慈雲院芳室紹慶」から法号の一字をとって「慶」としていると考えられます。

慈雲院の年表と動向

慈雲院の年表

慈雲院の生没年は不詳です。また長男・与一郎が1582(天正10)年に亡くなるまでの前半生については、ほとんど明らかになっていません。1566(永禄9)年と1568(永禄11)年に※印をつけているのは、「羽柴秀長の生涯」の記述にもとづく推定時期です。

慈雲院の動向が比較的明らかになるのは、豊臣秀長が1585(天正13)年に大和国が加増されて、大和郡山城に入城したのちのこととなります。

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西暦(和暦)出来事
1566(永禄9)年※秀長と結婚
1568(永禄11)年※長男・与一郎が誕生
1582(天正10)年長男・与一郎が死去
1585(天正13)年9月秀長と共に大和郡山に入部
1586(天正14)年5月秀長の母・天瑞院殿が大和郡山を訪問。共に春日大社・高野山を参詣
1588(天正16)年9月徳川家康・毛利輝元の大和郡山城訪問に伴い進物を贈られる
1589(天正17)年9月秀吉による人質政策の一環として京の聚楽第屋敷に居住
1590年(天正18)年4月秀長の病気看護のために大和郡山に戻る。興福寺に病気回復の祈祷を依頼
1590年(天正18)年5月秀長の母・天瑞院殿とともに春日大社を参詣
1590年(天正18)年9月大和国の各寺社に秀長快復の祈祷を指示し、家臣・横浜良慶横浜一庵)を通じて寺社領を返還
1591年(天正19)年1月養嗣子・秀保秀長の長女との婚姻を交わす
1591年(天正19)年1月22日秀長が死去。秀保が後継
1591年(天正19)年2月秀保・秀保の妻と共に上洛。大徳寺の長老3人の助命を天瑞院殿ともに秀吉に嘆願
1593(文禄2)年秀保と秀長長女の婚儀が執り行われる
1594(文禄3)年秀保が死去。秀長の家系は断絶

慈雲院はどんな人物で何をした人なのか?

慈雲院の後半生を見ると、彼女は「大和大納言家」とも言われた豊臣秀長の一家の家政を代行する「家長代行」の立場にあったと考えられます。

例えば徳川家康・毛利輝元など豊臣秀長が「指南(政治や軍事の指導すること)」を行なった大名たちから訪問を受けた時には、秀長に次ぐ順番で進物が贈られたりしていたことがその証拠でしょう。

また慈雲院から見て義理の母にあたる天瑞院殿(大政所)「豊臣兄弟!」のなかにあたる女性)が大和郡山を訪問した時には、秀長とともに出迎えて領国内にある春日大社や高野山の寺社を参詣しています。

秀長死後の慈雲院は「秀長ファミリー」の家長だった

秀長の晩年期の慈雲院は、病気快復のために大和国中の寺社仏閣を挙げての祈祷を行うよう依頼し、そのお布施として家臣の横浜良慶横浜一庵)を通じて、寺社領の返還を約束することもしていました。

さらに1591(天正19)年1月に豊臣秀長が病死したのちは、慈雲院は家長の立場として、秀長の後継者である豊臣秀保と「秀保の妻」を連れて豊臣秀吉と謁見。

しかし1594(文禄3)年4月に「秀長ファミリー」の二代目・豊臣秀保が病死し秀長の家系は断絶。その後の慈雲院の動向を示す史料は途切れます。

慈雲院は大和国中之庄村(現在の奈良市)や窪之庄村(現在の奈良県天理市)などで、合計2,000石余りの知行地をしばらくの間有していたと考えられます。

豊臣兄弟 慈雲院 関連記事と参考文献

豊臣兄弟 慈雲院 関連記事

大河ドラマ「豊臣兄弟!」で慈雲院のモデルとなった、吉岡里帆さん演じる慶が小一郎とお見合いをして政略結婚をすると言うお話のあらすじやネタバレに関しては下記の記事も参考になるでしょう。

また慶のモデルとなった慈雲院については下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

豊臣兄弟 慈雲院 いつから 参考文献

今回の記事は下記の書籍を参考としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんと柴裕之さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

NHK出版
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著:黒田 基樹
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