「豊臣兄弟!」の小一郎にはなぜ父がいないのか?
父がいない小一郎
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」では主人公・豊臣秀長(小一郎)(仲野太賀)の家族として、母・なか(坂井真紀)、姉・とも(宮澤エマ)、兄・藤吉郎(池松壮亮)、妹・あさひ(倉沢杏奈)の出演者発表がされています。
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しかしその発表の中には小一郎の「父」とする人物はいません。これはどういうことでしょうか?今回の記事では小一郎こと豊臣秀長の父の謎に迫っていきます。
なお説明では主に2冊の本を参考文献としています。
- 柴裕之編著「豊臣秀長」戎光祥出版 (2024年)
- 黒田基樹「羽柴秀吉とその一族」角川選書(2025年)
「豊臣秀長」の柴裕之さんと、「羽柴秀吉とその一族」の黒田基樹さんは、大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
小一郎の父はすでに亡くなっている設定か
大河ドラマ「豊臣兄弟!」のあらすじによると、物語は「尾張国中村で百姓をしていた小一郎のもとにすでに織田家に仕官していた兄・藤吉郎がやってきて自分の家来になってほしい」というところから始まります。
藤吉郎と呼ばれていた豊臣秀吉が織田家に仕え始めたのは、1553(天文22)年ごろから1558(永禄元)年ごろの間と考えられています。
「羽柴秀吉とその一族」では、秀吉は少年時代に父を失っていたと説明していることから、「豊臣兄弟!」はドラマが始まった時点で、小一郎の父はすでに亡くなっているという設定なのでしょう。
そもそも秀吉自身が、自らの少年時代について述べたものは、天正十七年(一五八九)十一月二十四日付で北条氏直に宛てた条書のなかで、「秀吉若輩の時、孤と成りて」(秀吉二七六五~七一)と述べているだけであるが、これによっても秀吉が、少年時代に父を失って孤児の身になっていたことが知られる。
黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (Function). Kindle Edition. No.343
秀長の父とはどんな人物だったのか?
大河ドラマ「秀吉」では竹阿弥は秀長の父だった
竹中直人さん扮する豊臣秀吉を主人公としたNHK大河ドラマ「秀吉」(1996年)では、秀長と血のつながった父として財津一郎さん扮する竹阿弥という男性が登場します。
この竹阿弥もしくは筑阿弥とも呼ばれる人物は、江戸時代前期に編集された「太閤素性記」の情報に基づいているものでしょう。
「太閤素性記」はともと秀吉の実父を木下弥右衛門、秀長とあさひの父を筑阿弥としています。
しかし「羽柴秀吉とその一族」によると「太閤素性記」 は「木下家系図」など他の信用のおける史料と比べると、兄弟たちの生まれた年について齟齬をきたすことことが多く、秀長の父の名前が筑阿弥であったことは疑わしいと述べています。
秀長の父の確かな名前は「妙雲院栄本」という法号
では小一郎の父の名前は何という名前だったのでしょうか?
秀長の父の名前として最も信用できるものは「妙雲院栄本」という法号です。この法号が秀長の父であることは、秀長の姉・ともこと瑞竜院(宮澤エマ)の菩提寺である瑞龍寺の過去帳に「妙雲院栄本、秀吉公父、八月二日」とあることから来ています。
秀長の父の名前として最も有力な史料は現在のところ瑞龍寺の過去帳だけであり、確かな俗名はいまだ分かっていません。
「妙雲院栄本」は秀長の実父だった
上述したように「太閤素性記」はともと秀吉の父親を木下弥右衛門、秀長とあさひの父を筑阿弥としています。実際、大河ドラマ「秀吉」でも、藤吉郎(秀吉)と小一郎(秀長)の実父は異なるという設定です。
しかし秀長の父が1543(天文12)年に亡くなっていることは、「木下家系図」などの史料から明らかになっています。
よって最近の研究では、ともこと天瑞院殿との間に産まれたともこと瑞竜院(1532年生まれ)、秀吉(1537年生まれ)、秀長(1540年生まれ)、あさひこと南明院(1543年生まれ)の兄弟たち全員が、妙雲院栄本と血が繋がっていると考えられています。
つまり秀吉と秀長は同母同父の兄弟であったと見られています。
「妙雲院栄本」が在村被官であった可能性
秀長の父である「妙雲院栄本」は、おそらく織田家に仕える半農半兵の百姓(在村被官)で、それなりの規模を持つ農家の出身であったと考えられます。
傍証として秀長の兄・秀吉の子飼いの武将として有名な福島正則の存在が挙げられます。福島正則の母は「妙雲院栄本」の妹(松雲院)であり、福島市兵衛尉正信(いちひょうえのじょうまさのぶ)の妻です。
この時代に苗字を持つ家と結婚ができる家とは、税を納める基礎となる田畑を所有していることが一般的であったため、秀長の父もそう言った人物の1人であったのではないかと推測されます。