羽柴秀勝(石松丸)の名前について
羽柴秀勝(石松丸)とは
羽柴秀勝(石松丸)(?~1576年?)とは、羽柴秀吉(2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の藤吉郎。のちの豊臣秀吉)が近江国長浜12万石を統治していた時代に「南殿」という別妻(側室)との間にもうけた男子のことです。
石松丸秀勝のはっきりした誕生年は分かっておらず、豊臣秀吉研究の第一人者として知られる、故・桑田忠親 國學院大学名誉教授によると石松丸秀勝の誕生年は1570(元亀元)年ごろであると推定されています。
3人の秀勝
豊臣秀吉の親族を調べていると「秀勝(ひでかつ)」という実名を名乗った男性は3人いたことが分かります。
| 名前 | 生年と死没年 | 説明 |
|---|---|---|
| 羽柴秀勝 (石松丸) | ?~1576年 | 秀吉の側室・南殿との間にできた実子 |
| 羽柴秀勝 (於次丸) | 1568~1585年 | 元は織田信長の五男で秀吉・寧々夫妻の養子 |
| 豊臣秀勝 (小吉) | 1568~1592年 | 瑞竜院殿日秀尼と三好吉房の次男 |
このため豊臣秀吉と南殿の間にできた秀勝は、他の秀勝と区別するために「石松丸秀勝」と呼ばれています。
なお「3人の秀勝」を比較するために「秀勝 3人 羽柴秀勝(石松丸) 羽柴秀勝(於次丸) 豊臣秀勝(小吉)」という関連記事も公開しています。合わせて参考にしてください。
羽柴秀勝(石松丸秀勝)の名前
「石松丸」という漢字の読み方について、「せきしょうまる」と「いしまつまる」とどちらでも読むことが可能です。
ただ上述した故・桑田忠親さんや、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんの著作を読む限り、名前の読み方については言及されていません。
「羽柴秀吉とその一門」によると「石松丸秀勝」という名前のうち、「石松丸」という部分は「竹生島奉加帳」に見られる名前で、「秀勝」の部分は長浜徳勝寺の位牌に「朝覚大禅定門 次郎秀勝君」という銘が刻まれていることから来るものです。
羽柴秀勝(石松丸)の出自と家族
羽柴秀勝(石松丸)の出自
上述したように石松丸秀勝と呼ばれる羽柴秀勝の父親は羽柴秀吉で、母親は南殿です。
南殿の出自については詳しいことは分かっておらず、おそらく秀吉に仕えた女房衆の1人で石松丸秀勝を出産したことによって、別妻(側室)の立場に引き上げられたと推定されます。
羽柴秀勝(石松丸)の家族
石松丸秀勝は6~7才の時に亡くなっていることから、家族と呼べる人物は父・羽柴秀吉と母・南殿だけです。
羽柴秀勝(石松丸)の動向
石松丸が竹生島に銭百疋を寄進
石松丸秀勝は10才に満たずして亡くなっているため、事績というものがほとんど残されていません。唯一と言える事績が「竹生島奉加帳」に記述されているように、琵琶湖に浮かぶ竹生島へ金品を寄進したことです。
石松丸秀勝は1575(天正3)年もしくは1576(天正4)年ごろに羽柴家の一員として竹生島に銭百疋(銭一貫文のこと。銅銭1,000枚)を寄進したことが記されています。
さて、秀吉の長浜在城時代というと、天正二年(一五七四)から同十一年頃までの期間だが、その当時の秀吉の家族の動静をしらべるのに、最も便利な史料に、「竹生島奉加帳」がある。
これは、現に竹生島の宝厳寺の秘蔵にかかり、天正三年から同六年に至るあいだに、秀吉とその一族、家臣たちが宝厳寺に米銭を奉納したその数額と、奉納した人々の名前とを連記したものである。
その最初に、米百石を寄進した羽柴筑前守秀吉の署名をして大書しているが、次に、天正三年の五月吉日に、御初尾として、米五石を御内方、米一俵を大方殿、銭百疋を石松丸御乳の人、十月吉日には、御初尾とし米一俵を大方殿、銀二十疋を南殿、同四年の五月吉日には銭一貫文を御内方、同五年の十一月二十二日には、米二斗を御城の乳母、銭十疋を御城の南殿、同六年の二月十日には、米二石を御内が、それぞれ奉納している。黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版 「長浜で早死にした太閤の嫡子」(桑田忠親)123ページ~124ページを引用
なお上記の引用に登場する御内方とは秀吉の正妻(正室)の寧々(「豊臣兄弟!」の寧々にあたる女性)、大方殿とは天瑞院殿(「豊臣兄弟!」のなかにあたる女性)のことです。
羽柴秀勝(石松丸)の参考文献
今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の黒田基樹さんは2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
