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豊臣秀長 子供 羽柴与一郎 秀長の息子 長男で実子

hashibayoichiro
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羽柴与一郎の生年と死没年について

1568(永禄11)年生まれと推定される羽柴与一郎

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長仲野太賀)には、正室(正妻)である慈雲院(「豊臣兄弟!」の慶)との間に、羽柴与一郎(はしばよいちろう)(または木下与一郎)という実子が存在ました。

羽柴秀長の生涯」によると与一郎の誕生は1568(永禄11)年ごろと推定されています。また与一郎はのちに那古屋因幡守(なごやいなばのかみ)と養雲院殿の次女である岩(いわ)という女性と結婚します。

与一郎は1582(天正10)年に早逝

ところが与一郎は1582(天正10)年に亡くなります。与一郎が亡くなったことを伝える「高山公実録」によると、「御実子早生」という記述があるためです。

「与一郎」という仮名(けみょう)が伝わっていることからすると、おそらく封建時代の成年儀式である「元服」は生前に済ませていたことが伺えます。ただし与一郎は岩との間には子供をもうけることはありませんでした

羽柴与一郎は何をした人 どんな人物だったのか

与一郎は三木城攻めに出陣していたか?

「与一郎は元服していた」という傍証が羽柴秀吉による「三木城攻め」です。

「三木城攻め」とは1578(天正6)年から1580(天正8)年にかけて播磨国で行われた攻城戦で、三木城を包囲する武将の一人として「図説 豊臣秀長」の17ページにおいて、「木下与市郎」という名前を見つけることができます。

図説 豊臣秀長」によると、「木下与市郎」は羽柴秀長とは別の部隊を形成する一手の大将を務めています。

与一郎の年齢を基準に考えると、三木城攻めは与一郎がおよそ10才から12才の時期に行われていました。当時の武家の常識からすると、10代前半で元服の儀式を済ませた男性が戦に出ることはごく当たり前のことです。

「木下与市郎」という武将が、この記事で紹介する羽柴与一郎に該当するのかどうか研究が待たれるところでしょう。

与一郎の死により伯父・秀吉の地位が上がる

人の人生とは皮肉なものです。秀長と慈雲院にとってたった1人の実子であった与一郎が亡くなったことで、与一郎の伯父にあたる羽柴秀吉池松壮亮)の政治的地位が有利なものに働きます。

与一郎が亡くなったのは1582(天正10)年のことで、同じ年に秀吉・秀長にとって主君にあたる織田信長(小栗旬)が本能寺において明智光秀(要潤)によって討ち取られています。

明智討伐後に行われた「清須会議」では信長亡き後の、跡目相続や領地配分など織田家の主導権争いが行われますが、このとき秀吉は丹羽(惟住)長秀の勢力を取り込むことに成功しています。

政略が成功した理由は長秀の三男である千丸を秀長の嫡男として迎えたためです。さすがに上昇志向の強い秀吉も甥・与一郎が健在であれば、千丸を弟・秀長の嫡男として迎えることはなかったでしょう。

与一郎は生前に何をしていたのか、またどんな人物であったのか分かっていないことが多いとされていますが、その死が秀吉の政治的地位を押し上げることに貢献したこととは、本人も思ってもいなかったでしょう。

豊臣秀長 子供 羽柴与一郎 関連記事と参考資料

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豊臣秀長には3人の実子と3人の養子がいました。その子供たちに関する記事は以下のものとなります。

豊臣秀長 子供 実子3人・養子3人 関連記事

豊臣秀長が生涯のうちに得た実子3人(羽柴与一郎・秀保の妻・きく)と養子3人(岩・千丸・豊臣秀保)を一覧表形式にしてまとめた内容については下記の記事を参考にしてください。

豊臣秀長 子供 羽柴与一郎 参考資料

「豊臣秀長 子供 羽柴与一郎 秀長の息子 長男で実子」の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。

これらの著者のうち、柴裕之さんと黒田基樹さんは、いずれも2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

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