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朝日姫 家康 仲 秀吉の妹・朝日姫と徳川家康の夫婦仲はどうだった?

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朝日姫と徳川家康の結婚まで

朝日姫とは

朝日姫(あさひひめ)(1543~1590年)とは2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で倉沢杏菜さんが演じる「あさひ」という女性にあたる人物で、豊臣秀吉秀長兄弟の妹です。

また朝日姫は1586(天正14)年の43才のときに豊臣秀吉と徳川家康が政治的に和解をするために、家康の正室として徳川家に再嫁したことでも知られています。

家康と結婚する前の朝日姫: 最初の夫や結婚について

朝日姫は徳川家康と再婚する前に、副田甚兵衛尉(そえだじんひょうえのじょう)という別の男性と結婚していたことでも知られています。

副田甚兵衛尉は1582年(天正10)年にそれまで守備していた但馬国多伊城を一揆勢に奪われる失態を犯してしまい、秀吉から朝日姫との離縁を言い渡されてしまいます。

朝日姫と副田甚兵衛尉が離婚した詳しい経緯については以下の記事が参考になります。

「どうする家康」の朝日姫と徳川家康の仲

2023年に放送されたNHK大河ドラマ「どうする家康」において、朝日姫は秀吉の妹・旭(山田真歩)として登場します。

第34回「豊臣の花嫁」で豊臣家と徳川家の政略結婚として徳川家康(松本潤)の継室となった旭は、自分自身や母・大政所が「外交の道具」として扱われていることに深く傷つくものの、輿入れをした浜松では健気にも明るく振る舞います。

しかし旭の心中を察した家康は、旭に気遣いをして深く頭を下げて詫びいる場面が描かれます。

「どうする家康」の視点からすると、朝日姫と徳川家康の夫婦仲は決して悪くなく、中年同士だから分かり合える愛情や信頼があったと考えられるでしょう。

実際の朝日姫と徳川家康の仲はどうだったのか

参考文献では夫婦仲そのものについては言及なし

では実在した朝日姫と徳川家康の仲は、実際にどうだったかのでしょうか?

この記事を書くにあたって、事前に大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんと柴裕之さんの文献を読み込んでいます。

残念ながら朝日姫と家康の結婚した事実や当時の政治状況に関する言及はあるものの、夫婦生活という心の内面については触れられていません。

ただこれらの参考文献を読んでいる限り、朝日姫と徳川家康の間に起こったと思われる客観的な事象からして、2人は夫婦として決して仲が悪いものではなかったと推定されます。

朝日姫と家康の結婚は子供をもうけることを前提とした結婚ではなかったにせよ、政治勢力を争う家の中年同士の結婚として「やるべきことはやっていた」と見られるからです。

1. 家康から望んだ政略結婚だった

1586(天正14)年、あさひは徳川家康の継室として政略結婚。

通説では2023年のNHK大河ドラマ「どうする家康」などでで見られるように、豊臣秀吉に臣従しようとしない徳川家康を懐柔するために、秀吉側からの提案した縁組であるとされてきました。

しかし2026年に放送される、NHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんは、あさひと徳川家康の縁組は、家康側からの申し出によるものだったと指摘されています。

しかし結婚は、すでに柴裕之氏(『徳川家康』一五〇頁)が指摘しているように、家康から要望したものであった。これに関しては、秀吉は同年五月二十四日付の朱印書状で、「家康の事、種々縁辺等の儀迄懇望せしめ候」と述べていて(秀吉一八九三~四)、縁組が家康からの要望によるものであったことが確認される。

黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (Function). Kindle Edition.

たとえ「関白秀吉」から押し付けられた結婚であったとしても、秀吉の妹である朝日姫を粗略に扱うことはできません。

しかも黒田基樹さんが指摘されるように、家康の方からオファーした結婚となれば、家康は朝日姫を粗略どころか「貴人」として接しなければならなかったのではないでしょうか。

2. 長丸(徳川秀忠)と養子縁組をした可能性

朝日姫は徳川家康の最初の正室である築山殿を継ぐ、「継室」として迎えられています。

そのため朝日姫は徳川家康と側室・お愛の方の間にできた長丸(のちの徳川秀忠)と養子縁組をした可能性が、上述した黒田基樹さんが指摘されています。

ただし結婚にともなって、朝日は家康嫡男の秀忠(当時は幼名長丸)と養子縁組した可能性が高いとみなされる。そのことを明示する史料はみられないものの、その反証もみられていない。

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朝日姫と長丸の養子縁組は、小牧長久手の戦いで拗れていた豊臣家と徳川家の仲をほぐす「政治ショー」だったかもしれません。

しかし現代的な感覚からすると継母と血のつながりがない子供を養子縁組するということは、継母たる朝日姫が、大河ドラマ「どうする家康」で見られるように、ある程度徳川家に溶け込んでいたようにも見えます。

3. 人質の役目を終えたのちの朝日姫への扱い

1589(天正17)年、豊臣秀長の居城・大和郡山城で、病に伏せる大政所(「豊臣兄弟!」のなかにあたる女性)を朝日姫と徳川家康がお見舞いをしています。

2人が郡山城で大政所のお見舞いを終えた後、家康は大和郡山にあさひを置いていき、1人で駿府へ帰っていきました。

つまり「あさひは形質としての人質の役目は終えた」ということでしょう。このときの家康の行動は「夫としての愛情がなかったから朝日姫を豊臣家に突き返した」と言えなくもありません。

しかし翌年の1590(天正18)年に朝日姫が亡くなった事実からすると、晩年は徳川家ではなく豊臣家で過ごした方が良いという大人の配慮が家康に働いたと考えることもできそうです。

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