朝日姫の名前について
朝日姫とは
朝日姫(あさひひめ)(1543~1590年)とは2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で倉沢杏菜さんが演じる「あさひ」という女性にあたる人物で、豊臣秀吉・秀長兄弟の妹です。
また朝日姫は1586(天正14)年の43才のときに豊臣秀吉と徳川家康が政治的に和解をするために、家康の正室として徳川家に再嫁したことでも知られています。
朝日姫の名前について
「朝日姫」や「朝日」といった名前は「徳川幕府家譜」や「幕府祚胤伝」といった史料で確認することができるため、生前の俗名として「朝日姫」や「朝日」といった名前を名乗っていたと考えられるでしょう。
また別の史料では「朝日」ではなく「旭」という文字が使われ「旭姫」と表記されることもあります。ですが「羽柴秀吉とその一族」によると「朝日」と「旭」のどちらかが間違いというわけではないと説明しています。
また「幕府祚胤伝」による朝日姫の法名は「南明院殿光室総旭大姉」とされています。
そのため豊臣秀吉・秀長兄弟の妹にあたる女性を呼称するときは、「朝日姫」と「旭姫」のどちらでもなく法名の「南明院殿」と呼称する方がより正確であると言えるでしょう。
朝日姫の出自と家族
朝日姫の出自
朝日姫は父・妙雲院殿栄本という法名を持つ男性と、母・天瑞院殿という法名を持つ女性(「豊臣兄弟!」のなかにあたる女性)の間にできた子供とされています。
「太閤素性記」では朝日姫と次兄・秀長の父親(筑阿弥)は、姉・瑞竜院殿日秀尼(「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)と長兄・秀吉の父親(木下弥右衛門)と異なるとされています。
ですが大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんの著作「羽柴秀吉とその一族」や同じく柴裕之さんが編著をされている「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」によると、瑞竜院殿・秀吉・秀長・朝日姫の兄妹はすべて同一の父を持つと指摘されています。
また同時に朝日姫の父親は、妙雲院殿栄本という法名があることは分かっているものの、俗名については「筑阿弥」なのか「木下弥右衛門」なのか、はたまた全く別の名前を持っていたのかは現在のところ判明していないと説明されています。
朝日姫の家族
上述したように朝日姫の父親は妙雲院殿栄本で母親は天瑞院殿です。また朝日姫の同父同母の兄妹たちとして姉の瑞竜院殿・長兄の藤吉郎(のちの豊臣秀吉)・次兄の小一郎(のちの豊臣秀長)が挙げられます。
また1582(天正10)年6月ごろまでには最初の夫として副田甚兵衛尉(そえだじんひょうえのじょう)、1586(天正14)年には2番目の夫として徳川家康がいました。
朝日姫の動向
朝日姫の最初の夫・副田甚兵衛尉について
朝日姫に関連する記述が登場するのは、1673(寛文13/延宝元)年に編纂された「武家事紀」の記述です。
副田甚兵衛尉という人物が羽柴秀吉(当時)の妹婿であると説明されています。この記述は1577(天正5)年から1582(天正10)年にかけて織田信長の命令によって、秀吉が中国地方の大部分を所領とする毛利家と対峙していた時期です。
但馬国を領し、出石に在城、二方郡台の城に副田甚兵衛尉〈秀吉妹婿〉在て秀長の与力たり、
黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (p. 47). (Function). Kindle Edition.
1580年代前後、羽柴家における副田甚兵衛尉の立場は「秀吉の直臣で秀長の与力(よりき)」というものでした。
現代風にいうと「甚兵衛尉の雇用主は羽柴秀吉であるが、羽柴秀長のもとに出向している」という感覚に似ているでしょう。
秀長が戦を行うときは甚兵衛尉は秀長に加勢して戦闘に参加しますが、秀吉から別命があるときは秀長よりも秀吉の命令を優先するという存在です。
副田甚兵衛尉との離婚
「武家事紀」によると、本能寺の変で織田信長が敗死したことに伴い、副田甚兵衛尉は但馬国から播磨国に移動。するとそれまで守備していた但馬国の多伊城を地元の一揆勢によって奪われてしまったようです。
公(秀吉)の妹は元副田甚兵衛妻なり、副田但馬国二方郡多伊城に在り、信長逝去の時、副田兵を播州に出し、其のあとにて一揆起こり、多伊城を攻め取る、宮部(継潤)馳せ来たりて取りかえす、これより副田が妻を公奪いて与えず、副田猶勤仕す、
黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (p. 47). (Function). Kindle Edition.
このとき多伊城は秀吉家臣の宮部継潤によって再奪取されたものの、秀吉は副田甚兵衛尉の失態を責めて朝日姫と離縁させたとあります。
織田信長が明智光秀によって討たれた本能寺の変といえば1582(天正10)年6月2日の事件です。通説では「朝日姫は1586(天正14)年に徳川家康と結婚するために前の夫と離婚させられた」と言われています。
しかし「武家事紀」の所伝によると、朝日姫は徳川家康と結婚するかどうかとは関係なく前の夫と別れていたことになります。
朝日姫の最初の夫は誰? 副田甚兵衛尉・副田吉成・佐治日向守
なお徳川家康と結婚する前の朝日姫の夫を副田甚兵衛尉ではなく、「副田吉成(そえだよしなり)」や「佐治日向守(さじひゅうがのかみ)」とする説もあります。
「朝日姫の最初の夫」とされる男性の名前が異なる理由は、異なる時代に異なる所伝によって説明されているためです。
「朝日姫の最初の夫」とされる男性は副田甚兵衛尉が最も可能性が高く、副田吉成や佐治日向守は可能性が低い理由については下記の記事で説明しています。合わせて参考にしてください。
徳川家康との結婚
1586(天正14)年、あさひは徳川家康の正室として政略結婚をします。
通説では2023(令和5)年のNHK大河ドラマ「どうする家康」の第34回「豊臣の花嫁」などでで見られるように、豊臣秀吉に臣従しようとしない徳川家康を懐柔するために、秀吉側からの提案した縁組であるとされてきました。
しかし「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんは、あさひと徳川家康の縁組は、家康側からの申し出によるものだったと指摘されています。
しかし結婚は、すでに柴裕之氏(『徳川家康』一五〇頁)が指摘しているように、家康から要望したものであった。これに関しては、秀吉は同年五月二十四日付の朱印書状で、「家康の事、種々縁辺等の儀迄懇望せしめ候」と述べていて(秀吉一八九三~四)、縁組が家康からの要望によるものであったことが確認される。
黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (Function). Kindle Edition.
家康は秀吉・秀長兄弟の妹である朝日姫には夫がおらず、「秀吉の義弟」という立場を手にいれることができれば、豊臣政権下で極めて高い政治的な地位が得られることを見越していたのでしょう。
家康と結婚したのちの朝日姫
1589(天正17)年、豊臣秀長の居城である大和郡山城で、病に伏せる天瑞院殿をあさひと徳川家康がお見舞いをしています。
2人が大政所のお見舞いを終えたのち、家康は大和郡山に朝日姫を残し、1人で駿府へ帰っていきました。つまり「あさひは人質としての役目は終えた」ということでしょうか。
朝日姫は翌年の1590(天正19)年1月14日に京都の聚楽第において病気で亡くなります。
朝日姫 関連記事と参考文献
朝日姫 関連記事
豊臣秀吉・秀長兄弟の妹である朝日姫については下記の記事でも言及しています。
- 豊臣兄弟! あさひ 秀吉・秀長兄弟の妹 倉沢杏菜
- あさひ(朝日姫)の夫 副田甚兵衛尉と徳川家康 豊臣兄弟!
- 豊臣秀長の妹 あさひ(朝日姫)の子供 徳川秀忠 豊臣兄弟!
- あさひ(朝日姫) 死因は病気 47才で亡くなる 豊臣兄弟!
朝日姫 参考文献
今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の黒田基樹さん編著者の柴裕之さんは、それぞれ2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 柴裕之(編著) 豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
