足利義昭はどうなる?結末とその後【最初に知りたい人向け】
足利義昭は最終的にどうなった?(追放後も生存)
「豊臣兄弟!」の足利義昭(1537~1597年)は1573(天正元)5月の「槇島城の戦い」で織田信長に敗北したことによって、京から追放されます。
追放後は、中国地方に大勢力を誇った毛利家の庇護を受け、備後鞆(びんごとも)で亡命生活を送っていました。
なぜ織田信長に追放されたのか
足利義昭が織田信長によって追放された直接の理由は、1573(天正元)5月の「槇島城の戦い」で敗れたことによるものです。
しかし、足利義昭は同年1月には近江で挙兵したことによって河内若江への追放処分をすでに受けており、このとき室町将軍の地位を失っていました。
その後どこで何をしていたのか
毛利家を頼って亡命生活を送ることになった足利義昭は、その後も備後鞆(現在の広島県福山市)で室町幕府の復権を狙っていました。
しかし毛利家が豊臣政権に組み込まれるにつれ、やがて室町幕府の復権を諦めるようになります。
足利義昭とはどんな人物か(簡単に解説)
足利義昭は室町幕府最後の将軍
足利義昭は、室町幕府の第15代将軍で最後の将軍とされています。兄で第13代将軍の足利義輝の死後、各地を転々としながら将軍就任の機会をうかがい、最終的に織田信長の支援を受けて将軍の地位に就きました。
織田信長に擁立されて将軍となった人物
足利義昭は、織田信長に擁立される形で1568(永禄11)年に京都に入り、第15代将軍として幕府を再興。
しかしその後、次第に信長との関係は悪化しやがて対立へと発展。この対立が室町幕府滅亡へとつながる大きな要因となりました。
織田信長との関係と対立
将軍就任と信長との協力関係
織田信長に将軍として擁立される前の足利義昭は、越前国の守護大名であった朝倉義景に庇護されていました。しかし義景がいつまで経っても上洛しない態度に見切りをつけて、1568(永禄11)年7月に織田信長のもとへ赴きます。
義昭を庇護した信長は、その2ヶ月後には岐阜から京に向かって上洛作戦を開始。その途上で上洛を阻止しようとする六角義賢を「観音寺城の戦い」で打ち破り、入京に成功。
入京後の信長は、木下藤吉郎秀吉らを京都奉行に任命するなど、長年の戦で荒れた京の復興と経営に尽力します。
おかげで義昭は、御所の修築・皇室領の復旧・公家の救済・都の治安維持など、幕府が行うべき数々の政策を信長の武力をバックとして実行できるようになったのです。
「豊臣兄弟!」では信長が義昭を奉じて京に上洛するエピソードは、第10話「信長上洛」で描かれています。
次第に対立が深まった理由
もちろん信長は善意のみで足利義昭を庇護し、室町将軍の地位に就けたわけではありません。「義昭の利用価値」を十分に知っていたからこそ、京への上洛に付き合い、大金をかけて都の復興に尽力したのです。
信長の狙いとは「天下布武」です。室町将軍の権威を利用して五畿内(山城・大和・摂津・和泉・河内)とその周辺諸国を平定することが、「義昭の利用方法」と最初から割り切っていました。
こうした信長の考えは義昭の存在を見下すもので、奉行の藤吉郎らが信長の意を受けた政策を京都で実行すればするほど、将軍としての義昭の存在は空虚なものになります。
こうした背景があり足利義昭はやがて織田信長に強烈な不満を抱くことになったのです。
ちなみに「豊臣兄弟!」の第13話「疑惑の花嫁」において、信長は足利義昭が「元亀」に決めようとした新しい元号にケチをつけ、その使者である明智光秀を難詰しています。
こうしたシーンは、信長には義昭を尊重する気などさらさらなかったことを象徴する描写でしょう。
足利義昭はなぜ追放されたのか【最重要】
反信長包囲網の形成
もともと相性が良くないと見られた義昭と信長の仲に一層の亀裂が入ったのは、1569(永禄12)年1月に信長が義昭に迫って発布させた「室町幕府殿中掟(むろまちばくふでんちゅうおきて)」です。
この掟書きは「公事篇内奏御停止之事(訴訟について有力者への口利きを禁ずる)」という文言が書かれていることから、将軍の権限を制限しようとする意図があったことは明らかでした。
さらに翌年の1570(永禄13)年1月になると、「将軍が発令する御教書(命令書)には信長の副状(そえじょう。確認書類のこと)をつけよ」という項目まで追加されています。
1570年ごろの義昭は表立って信長と対立することはありませんでしたが、心の中では信長の越権行為は許し難いと感じていたことは容易に想像できるでしょう。
「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」の記述を参考にすると、足利義昭はすでに1569(永禄12)年ごろから信長の内諾を得ない御教書を連発しており、さらに1570(永禄13)年1月以降も、無断の御教書を各地の大名や寺社勢力などに対して送り続けていたようです。
こうして「室町将軍の秘密の命令書」が各地に出回ることになり、「反信長包囲網」が急速に形成されたと考えられます。
義昭と信長の水面下における政治的対立と権力闘争
足利義昭が主導する「反信長包囲網」が形成されている間、1570(元亀元)年4月下旬に起こった「金ヶ崎の退き口」を皮切りに、織田信長は畿内での反対勢力に対処することが迫られていました。
具体的には北近江では朝倉義景・浅井長政、南近江と京の周辺では比叡山延暦寺、摂津石山では本願寺、摂津福島と摂津野田では三好三人衆など、対応に苦慮していたうようです。
この間、義昭は表面上はどの勢力にも加担することはありませんでした。「策略家」である義昭は畿内での抵抗だけでは、自らが出馬するにはまだ早いと見ていたのかもしれません。
むしろ1570(元亀元)年12月ごろの義昭は、信長から迫られたとはいえ、比叡山に立てこもって信長に反抗する浅井・朝倉が下山して和議をするよう仲介までしています。
義昭と信長との武力衝突が表面化
こうした義昭の表面的な態度が一転したのは、1573(元亀4)年1月のことでした。
「武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康に圧勝す」という知らせに接した足利義昭は、南近江に勢力が残っていた六角氏と一向宗の門徒たちを味方に引き入れ、近江国の石山及び今堅田に砦を築き、信長への対抗をあらわにします。
義昭の挙兵を知った信長は逆に室町将軍の御座所となっている二条城を攻撃。義昭は投降し、信長は義昭を河内国の若江へ追放。
ちなみに義昭を二条城から若江の護送する任務に就いたのは、木下(羽柴)藤吉郎秀吉でした。このとき義昭は足利将軍としての地位を失うことになります。
京都追放に至る決定的要因
河内若江に放逐されたのちも足利義昭は京に逃れて、1573(天正元)年7月3日にも山城国の宇治にある槇島城で挙兵。しかしこの挙兵もすぐさま信長の知るところとなり、16日には城を包囲されあっさりと降参。
「槇島城の戦い」ののち、信長は義昭に京からの追放を言い渡し、その身柄を毛利家に引き渡しました。この戦いにおける敗北と、義昭が京から追放されたことによって、室町幕府は完全に滅亡したとされています。
なお「槇島城の戦い」で敗れた足利義昭(尾上右近)が織田信長から京からの追放処分を言い渡されると言う場面は、「豊臣兄弟!」の17話「小谷落城」の前半で描かれるでしょう。
追放後の足利義昭はどうなったのか
毛利氏を頼ったその後の生活
1573(天正元)年4月に武田信玄が死去し、その西上を期待できなくなった足利義昭は、その代役として中国地方の毛利家を頼るようになります。
おそらく「槇島城の戦い」で挙兵の計画を練っていた頃には、すでに毛利家に誼みを通じるような書状を送っていたのではないでしょうか。
信長によって京からの追放処分を受けた義昭でしたが、毛利領である備後鞆で身柄を預けられたことはある意味、自分の希望が適ったことだったのかもしれません。
室町幕府滅亡後の動き
一般的には、1573(天正元)年5月の「槇島城の戦い」における敗戦でもって室町幕府は滅亡したとされています。
しかし足利義昭自身は備後鞆に流されたのちも、一定の権威は残っていたようで各地の諸勢力はこの権威を利用しようとしていました。
その一例が1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた「賤ヶ岳の戦い」の前における、柴田勝家の外交活動でしょう。このとき柴田勝家は中国地方の毛利家と図って、北と西から羽柴秀吉を挟み撃ちにするという戦略を描いていたようです。
豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学の故・桑田忠親名誉教授によると、柴田勝家と足利義昭を庇護していた毛利家との外交についてこう説明されています。
それというのも、この三月四日のこと、柴田勝家は、そのころ毛利の客分として備前の鞆(とも)に亡命していた足利義昭の老臣真木島(まきしま)昭光に書状を送り、義昭に勧め、毛利軍の援けを得、協力して、北と西から秀吉の包囲攻めにしようと画策していたからだ。
足利義昭の最期(晩年と死)
晩年の義昭
1575(天正3)年以降、足利義昭は毛利家に庇護されていました。
その毛利家が羽柴秀吉に融和的な態度を取り、やがて臣従的な態度へと変化するにつれ、義昭も「時の権力者」である秀吉に対する反抗的な態度を徐々に後退させたようです。
1585(天正13)年に関白に任官した豊臣秀吉は、その前には足利義昭の猶子となって征夷大将軍に就任することも考えていました。
このときの義昭は秀吉が征夷大将軍となるために猶子とすることを拒否。
しかし、1586(天正14)年の九州征伐では島津家に秀吉との講和を促すよう使者を送ったり、1592(文禄元)年の朝鮮出兵(文禄の役)においては秀吉の要請に応じ、約3,000の兵を率いて肥前名護屋で在陣をしています。
どのように生涯を終えたか
足利義昭は1597(慶長2)年8月28日に大坂で死去。
死因は体にできた腫れ物とされていますが、老齢においてもなお肥前名護屋に在陣していたことが、体にこたえたのではないかとも言われています。
足利義昭の史実とドラマの違い
足利義昭は無能な将軍だったのか?
NHKの大河ドラマではこれまで様々な作品で足利義昭が描かれてきました。多くの作品では足利義昭は「暗愚な君主」として描かれていますが、実在した足利義昭もやはり無能な将軍だったのでしょうか?
実は「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」などの著作を残している小説家の堺屋太一さんは、それほど愚かな人物ではないと評価をされています。
むしろ、魑魅魍魎たちがうごめく戦国時代において、足利義昭は当代一流の策略家とまで評しています。
再評価される政治的役割
最終的に室町幕府は1575(天正3)年の「槇島城の戦い」において滅亡することになります。
それでもなお足利義昭には幕府を延命させた実績があり、かつ織田信長を自らの手下に置こうとした努力のあとが見られます。
だが、それで直ぐ、「打倒信長」に動くほど義昭も愚かな男ではない。それどころか、この時代における一流の策謀家といってよいほどの知恵者なのだ。足利義昭の考えた策略の第一は、織田信長を室町幕府の組織の中に閉じ込める手である。この年(永禄十二年)三月、足利義昭は信長に対し副将軍に就くよう要請したり、斯波家の家督をついで幕府の管領となるよう勧めたりする。
堺屋 太一. 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫) (p. 235). (Function). Kindle Edition.
もっとも、信長が副将軍や管領に就いてしまうことは、義昭の風下に立つことを意味しており、頭が上がらなくなることが分かっていたため、幕府に関わる役職は全て辞退していました。
足利義昭は「無能な将軍」ではなかったにせよ、策略家として信長の方が一枚上手であったと言わざるを得ません。
豊臣兄弟!での描かれ方(予想・考察)
10話からキーパーソンの1人として登場
「豊臣兄弟!」の足利義昭(尾上右近)は、第10話「信長上洛」から登場します。
このときの足利義昭はいつまで経っても上洛しようとしない朝倉義景(鶴見辰吾)に愛想を尽かし、直接、織田信長(小栗旬)と対面をして京への上洛を促すという設定でした。
信長との対立が軸になる
第11話「本圀寺の変」以降も腹の底が見えない信長に対し、義昭は徐々に不満を募らせます。その感情を隠さなくなった出来事が、1569(永禄13)年に信長から押し付けられた「室町幕府殿中掟」の発布です。
第13話「疑惑の花嫁」では義昭は刀を藤戸石に叩きつけて、刀が折れてしまうというシーンが描かれます。この場面は義昭が、明智光秀(要潤)など信頼がおける家臣の前では、信長への反抗心をむき出しにしていることがわかるでしょう。
この後展開される14話「絶体絶命」から17話「小谷落城」までは、義昭と信長の対立が話の軸として描かれます。
追放シーンの描かれ方
足利義昭が京都から追放されるシーンは第17話「小谷落城」の前半です。宇治の槇島城で挙兵した義昭は信長によってひねり潰され、京から追放処分を受けることになっています。
「豊臣兄弟!」の第18話以降のあらすじは、2026年5月29日にNHK出版から販売する「豊臣兄弟!」のガイドブックを読まないと分かりません。
しかし足利義昭は京から追放されたのちも、室町幕府の復権を画策していた史実を考慮すると、「豊臣兄弟!」の第18話以降においても、尾上右近さんが演じる足利義昭が登場する可能性は十分あり得るでしょう。
豊臣兄弟! 全話あらすじと最終回までのネタバレ
豊臣兄弟! 全話あらすじ
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の全話あらすじや登場する人物たち・人間関係・相関図などについては下記の記事を参考にしてください。
豊臣兄弟! 最終回までのネタバレ
また最終回までのネタバレ・史実・結末などのまとめについては下記の記事が参考になるでしょう。
豊臣兄弟! 足利義昭はどうなる 関連記事と参考文献
豊臣兄弟! 足利義昭はどうなる 関連記事
足利義昭が1569(永禄12)年から1573(天正元)年の間に築いていた「反信長包囲網」の一員として加わっていた浅井長政と朝倉義景が、織田信長に対してどのように反抗し、最後はどうなったかその結末については下記の記事において詳しく紹介しています。
またのちに亡命生活を送ることになった足利義昭は、越前国北庄城を本拠地とした柴田勝家とも誼みを通じて室町幕府の復権を狙っていたようですが、「賤ヶ岳の戦い」でその構想は瓦解します。
柴田勝家はなぜ「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に敗北したかなどについては、下記の記事で詳しく紹介しています。
豊臣兄弟! 足利義昭はどうなる 参考文献
今回の記事は下記の6冊の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。
- 八津弘幸 豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド) NHK出版
- NHK2026年 大河ドラマ 豊臣兄弟!完全ナビブック (ウォーカームック) KADOKAWA
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402)
- 堺屋太一 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)
