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豊臣兄弟! 柴田勝家はどうなる?死亡の結末と敗北理由ネタバレ

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柴田勝家はどうなる?死亡の結末とその後【最初に知りたい人向け】

柴田勝家はいつ死亡した?

「豊臣兄弟!」の柴田勝家(山口馬木也)が死亡した日時は、1583(天正11)年4月24日の早朝ごろと考えられています。

なぜ自害したのか(敗北の結末)

柴田勝家は、1583(天正11)年4月20日から21日にかけて勃発した「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に大敗を喫しました。その後北庄城に後退しますが、抵抗が敵わないと判断し自害を決断しました。

柴田勝家の死後どうなったか

柴田勝家の死後、ライバルだった羽柴秀吉は美濃・越前・加賀など北陸方面の諸国を自らの支配下に治めることになり、天下一統(天下統一)に一歩近づくことになりました。

この後、羽柴秀吉は尾張・伊勢・伊賀の3カ国を治める織田信雄や、三河・遠江・駿河・信濃・甲斐の5カ国を治める徳川家康と対決色を強めることになります。

柴田勝家とはどんな人物か(簡単に解説)

柴田勝家は織田信長に仕えた重臣の一人

柴田勝家(?~1583年)は織田信長に仕えた宿老の1人です。

元々は織田信長の弟・織田信勝(信行)の家臣で信長の排除を画策していましたが赦免され、信勝が謀反を企んだときには勝家が信長に密告。この報告を受けた信長は信勝を殺害し、尾張国統一に向けて一歩近づくことができました。

北陸方面を任された実力派武将

1573(天正元)年8月に織田信長は、越前の戦国大名・朝倉義景を本拠地・一乗谷に追い詰めて自害に追い込むことに成功。

朝倉家の滅亡後、越前は統治者が何人か変わることになりますが、1575(天正3)年に柴田勝家が越前の大名として配置され北庄城を本拠とします。

1576(天正4)年には、織田信長は柴田勝家を加賀・越後方面を平定するための「北陸方面軍司令官」に任命。柴田勝家のもとに前田利家・佐々成政・不破光治などの武将が与力として配属されていました。

柴田勝家と羽柴秀吉の対立

清須会議での対立構造

1582(天正10)年6月27日、尾張国の清須城において、本能寺の変で敗死した織田信長・信忠亡き後の織田家当主とその後見人を決めるための会議が開かれました。

これが世にいう「清須会議」です。会議の主な出席者は織田家の重臣たちで、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興の4人でした。

封建時代の慣習から織田家当主は、織田信忠の長男で信長の嫡孫にあたる三法師になることが既定路線で、実際にそうなりましたが、問題はその後見人です。

織田家当主といっても当時の三法師はわずかに3才。織田家の身内が後見人を務めることが必要ですが、この後見人を誰にするかが「清須会議」の最も大きな議題でした。

信長の次男と三男には織田信雄と織田信孝がおり、兄弟の順番から言えば、次男・信雄が三法師の後見を務めることが順当です。

しかし、三男・信孝は、信長を討った明智光秀を倒すために行われた「山崎の戦い」において名目上の総大将を務め、「裏切り者を討ち滅ぼした」という誰の目にも明らかな戦功があります。

どちらにも三法師の後見を務めることに一理ありますが、最終的に三男の織田信孝が岐阜城において三法師の後見を務めることが決定しました。

織田家後継者を巡る争いの始まり

三男・信孝は次男・信雄よりも覇気がある人物だったと伝わっています。しかしその性格は「清須会議」の後、裏目に出てしまいました。

三法師を取り込むことに成功した岐阜城の織田信孝は、単なる「後見」にとどまらず次第に「名代」として振る舞うようになります。こうした信孝の態度を見兼ねた羽柴秀吉は安土城の修復を急ぐなどして、対抗心を隠さなくなってきました。

一方、信孝と秀吉の政治的抗争を見ていた柴田勝家はどう思っていたのでしょうか?勝家は織田家当主である三法師が、秀吉に取り込まれることを恐れて、信孝側に加担するようになります。

その後、勝家・信孝と秀吉の政治的対立が決定的となった出来事が、1582(天正10)10月28日に起こった政変です。秀吉は丹羽長秀・池田恒興と図って、織田家当主を三法師から信長の次男・織田信雄に変えることを決定。

こうして「清須会議」でまとまったはずの織田家は、三法師を擁する織田信孝・柴田勝家派と、信雄を擁する羽柴秀吉派に分裂。両者の争いは武力衝突でしか解決できないほどの抗争に激化しました。

柴田勝家はなぜ秀吉に敗れたのか【最重要】

賤ヶ岳の戦いが始まるまでの戦局

柴田勝家が政敵・羽柴秀吉を滅ぼすために採った戦略とは、各地で「秀吉包囲網」を作ることでした。

北伊勢の滝川一益、越前の柴田勝家自身、岐阜の織田信孝が少しずつ時期をずらして挙兵することでした。各地で秀吉軍を引き摺り回して将兵の疲労を誘い、やがて軍全体を内部から瓦解させるいう作戦です。

これらに加えて室町幕府最後の将軍・足利義昭を庇護している毛利家と図って、北と西から秀吉を挟み撃ちする構想も練っていたようです。

まず、1583(天正11)年2月に滝川一益が北伊勢で挙兵し、2月10日に羽柴秀吉は北伊勢に進軍。

一益を北方から支援するため、勝家も2月28日に挙兵。越前の北庄城(現在の福井県福井市)を出陣し近江北部の柳ヶ瀬(現在の滋賀県長浜市)まで進出し、秀吉は木之本(現在の滋賀県長浜市)を本陣に。

さらに4月に入ると岐阜城を本拠する織田信孝も挙兵。秀吉は信孝の挙兵に対応するため、柳ヶ瀬で勝家と対峙していた本隊を、木之本から美濃国大柿(現在の岐阜県大垣市)に振り向けます。

このとき柳ヶ瀬に残って柴田勝家と対峙したのは、羽柴長秀(「豊臣兄弟!」の小一郎でのちの豊臣秀長のこと)が率いる別働隊で総勢1万ほどの軍勢であったと言われています。

ここまでが「賤ヶ岳の戦い」に至る大きな戦局です。

賤ヶ岳の戦いの戦闘状況

4月20日、柴田勝家は甥の佐久間盛政に田上山を本陣とする羽柴秀長に対する攻撃を命令。

佐久間盛政がまず攻撃に取り掛かったのは田上山の北西にある大岩山です。大岩山には中川清秀と1,000の兵たちが砦を固めて守っていましたが、「猛将」と言われた佐久間盛政の前に苦戦を強いられ、大将の中川清秀は戦死。

勢いに乗る佐久間勢は大岩山の北にある岩崎山の高山右近(重友)と、南に位置する賤ヶ岳の桑山重晴にも取り掛かり攻撃を始めます。

ここまでは佐久間勢が完全に羽柴勢を圧倒していました。長秀の別働隊は大岩山・岩崎山・賤ヶ岳の砦には援軍を送ることもなく、ひたすら自陣の中で守勢に徹していたようです。

ただし長秀が採用した「守りの戦略」にはある狙いがありました。

その意図とは、佐久間盛政が考えているよりも早く、本隊である羽柴秀吉勢が岐阜から近江北部まで帰ってくると予測し、盛政に敢えて深追いをさせ自軍に引きつけておくことです。

敗北の決定的な原因(兵力・裏切り・判断)

豊臣秀吉研究 上 」、「図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石」、「豊臣秀長 ある補佐役の生涯」と参考書籍を読み合わせると、どうやら佐久間盛政は、羽柴秀吉が率いる本隊が岐阜から近江北部の主戦場にまで戻ってくるまでに2日はかかると見込んでいたようです。

しかし実際には佐久間盛政が来襲した知らせを岐阜で聞いた秀吉が、賤ヶ岳の周辺に現れるまで1日しかかりませんでした。

この「1日の差」こそが長秀の狙いであり、その後の戦局を大きく分けることになります。

大岩山を陥落させた佐久間盛政は、岩崎山と賤ヶ岳の攻撃にかかっていましたが、そこに秀吉が率いる本隊・2万の軍勢が到着。4月21日未明の出来事でした。

佐久間盛政は急遽、岩崎山と賤ヶ岳への攻撃を中止を命令して勝家が率いる本隊との合流を図りますが、秀吉の本軍が賤ヶ岳で急追してきたため、盛政の後方部隊はやむを得ず戦闘を開始。柳ヶ瀬方面への退却が遅れます。

「退却する佐久間盛政とそれを追いかける羽柴秀吉」という構図こそ、世に名高い「賤ヶ岳の戦い」です。

佐久間盛政が秀吉の本隊と応戦している隙に、今度は柳ヶ瀬に陣取る柴田勝家の本陣を目掛けて長秀の別働隊1万が進軍を開始。

本陣を守っていた柴田勢は7,000ほどの軍勢がいたにもかかわらず、この知らせに動揺した兵士たちが敵前逃亡を始め、兵力は3,000にまで激減したと言われています。

予想外に早い秀吉主力の出現に慌てていた柴田・佐久間の将兵が、頼りの味方が消え失せたのを知って、恐怖に取りつかれたのも無理はない。たちまちにして柴田勝家の本隊からは脱走者が続出、三千人ほどに減ってしまったし、佐久間盛政隊は止めようもない敗走になった。

堺屋 太一. 全一冊 豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫) (p. 570). (Function). Kindle Edition.

3,000対1万では戦にならないと判断した柴田勝家は、越前方面への撤退を余儀なくされました。

なぜ形勢逆転できなかったのか

では越前方面に退いた柴田勝家は、その後なぜ形成を逆転できなかったのでしょうか?

「賤ヶ岳の戦い」における柴田勝家の敗北を決定づけたのは、北国街道沿いにある天神山砦と別所山砦を守る前田利家・利長親子の不可解な撤退でした。

2つの砦は羽柴長秀が柴田勝家の本陣に目掛けて進軍してくる北国街道の途上に位置していますが、秀長が南の方角から北上してきても何の抵抗もしません。それどころか総大将である勝家に対して何の連絡もなく、無断退却まで始める始末です。

前田親子の配置は佐久間盛政と柴田勝家の中間に位置し、戦線全体を支える役割がありました。この無断撤退は柴田軍全体の戦線を崩壊させてしまったのです。

結局、戦線から勝手に離脱した前田利家は本拠地である越前府中城(現在の福井県越前市)まで引き返し、4月22日には羽柴秀吉にあっさりと降伏。さらに北庄城に至る道案内まで務めることに。

前田親子による一連の裏切り行為は、勝家と秀吉の本格的な軍事衝突が始まる前の1582(天正10)年11月に、秀吉と利家の間で密約が交わされていたとも言われています。

柴田勝家の最期|死亡の経緯と北庄城の結末

北庄城への撤退

前田利家の裏切り行為によって敗色濃厚となった柴田勝家は、残存兵力をまとめて本拠地である北庄城まで撤退。決戦は籠城戦に持ち込まれました。

前田利家が降伏した翌日の4月23日、羽柴秀吉は北庄城の攻囲を完了させ、時を分かたず城の総攻撃を開始。

お市とともに自害

北庄城に籠る勝家は妻・お市に対して、3人の娘(茶々・初・江)たち共に城から退去するよう勧めます。しかし、お市は3人の娘を退去させることには同意するものの、自身が城から退去することは拒否。

お市は秀吉に対して直筆の書状でもって3人の娘たちを庇護してもらえるよう依頼し、その娘たちが城から退去する際には、北庄城の三の丸と思われる建物にまで姿を現して見送ったと言われています。

3人の娘たちが城から離れている間、両軍の戦闘は一時的に停止されたようですが、秀吉は4月24日午前3時ごろから攻撃を再開。

二の丸と本丸で激しい戦闘が繰り広げられ、やがて勝家は天守閣の最上階まで退き、押し寄せてくる秀吉軍の将兵たちに向かい「これからわれわれは自決する」と大声で宣言したようです。

お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像」では、柴田勝家とお市の最期についてこう説明しています。

これをうけてお市の方、それに勝家の妾一二人、三〇人余りの女房衆たちは、最期にあたって念仏を唱えはじめた。その光景は、柳の枝が風に揺れるように、桃の花に露がついているようなものであったという。これにはどれほど邪見(因果の道理を無視する考え)の人であっても、剣をとって殺しにくることはないだろうとして、勝家は一人一人を刺し殺し、そのうえで切腹の様子を見ろ、として、まず左脇に刀を指して、右の背骨まで切りつけ、返す刀で胸の下から臍の下まで切って、内臓を搔きだした。そして近臣の中村文荷斎に、首を打つよう命じ、文荷斎によって介錯されたという。そして文荷斎も、切腹し、信頼ある家臣八〇人余も、互いに刺し違えたり、自害したりして、ついに柴田家は滅亡したのであった。

黒田基樹. お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書) (p. 128). (Function). Kindle Edition.

最期の状況

つまり柴田勝家は最初にお市を刺し殺し、その直後に自らも切腹。中村文荷斎(なかむらぶんかさい)という家臣に命じて自分の首を打たせ介錯されて果てたということです。

江北で敗北を喫した勝家は、北国街道を北へむかい、居城の北庄城(福井市)に戻ったと考えられる。そして天正十一年(一五八三)四月二十四日に勝家は「北庄居城において切腹」し、「天主に火を懸け」滅亡におよんだという(『兼見卿記』同日条)。

また、柴田勝家とお市が共に自害する際には、自らの意思で城の天守閣に火を懸けたと言われています。

柴田勝家とお市が果てたのちには、2人の命が儚く散ったことを象徴するかの如く、北庄城全体が火の海に包まれていたと考えられるでしょう。

柴田勝家の死後どうなる?その後の影響

織田家の勢力バランスの変化

柴田勝家の死後、「賤ヶ岳の戦い」で秀吉本軍の追撃を受けた佐久間盛政は「謀反人の一味」として斬首刑に処され、その首は京でさらされたと言われています。

佐久間盛政を京で晒し首にすることの意味とは、秀吉に「天下の敵」とは誰であるかをアピールする意思があったと考えられるでしょう。別の言い方をすれば、自らが「天下の敵」を示して、天下取りの意思をもはや隠さなくなったということです。

実際、織田家の筆頭家老であった柴田勝家を倒して、越前・加賀を支配下に置いた羽柴秀吉は名実ともに織田家の中で最も力のある人物となり、もはや誰も逆らうことはできません。

柴田勝家が北庄城で自害したのち、程なくして北伊勢の滝川一益は降伏。美濃を支配していた、信長・三男の織田信孝は自害に追い込まれました。

豊臣政権成立への流れ

「賤ヶ岳の戦い」で柴田勝家に勝利したことによって、羽柴秀吉はのちの豊臣政権樹立の大きなきっかけであったと言えるでしょう。

ただし、このときの秀吉は五畿内とその周辺諸国・中国地方の一部・北陸地方で合計10数カ国以上を領有していましたが、今度は徳川家康や織田信雄の領地と境を接するようになりました。

「賤ヶ岳の戦い」での勝利は、1584(天正12)年の3月から11月にかけて行われた「小牧・長久手の戦い」の端緒ともなったのです。

柴田勝家の史実とドラマの違い

勝家は本当に「旧世代の武将」だったのか

江戸時代に成立した小瀬甫庵の「太閤記」や竹内雅斎の「絵本太閤記」などの軍記物における柴田勝家とは、いつも豊臣秀吉に出し抜かれる「愚将」であり、三枚目なイメージがある武将として描かれることが多いでしょう。

しかし豊臣秀吉研究で知られる國學院大学の故・桑田忠親名誉教授によると、秀吉が残した書状に基づき、柴田勝家は立派な覚悟ができた「勇将」であったと指摘されています。

再評価される実像

桑田忠親名誉教授は柴田勝家が勇将であったことの実例として、「甕割り柴田」や「智恵柴田」の逸話を挙げ、いずれも史実であるとその著作「豊臣秀吉研究 上」の中で紹介されています。

なお、ある戦いの最中、取っておきの水甕(みずがめ)をわざと槍の柄で突き割って、城中の兵士の反撃決意を固めさせ、城外に討って出、敵勢を衝き崩し、死中に活を得させた、という甕(かめ)割り柴田の逸話もあるし、また、土一揆の刀を没収し、それらを鋳潰して、鉄の鎖を製(つく)り、舟をつなぎ合わせて、九頭竜川に舟橋をこしらえ、秀吉の刀狩の先鞭をつけたという、逸話も確かな史実である。

桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402) 225ページ

豊臣兄弟!での描かれ方(予想・考察)

中盤で秀吉と対立

NHK出版から販売されている、大河ドラマ「豊臣兄弟!」のガイドブックである「豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)」の「あらすじ」によると、1話から17話までのお話が紹介されています。

17話は1573(天正元)年の8月から9月にかけて北近江の大名(国衆とも言われる)・浅井長政(中島歩)が自害するところまでが描かれます。

史実をもとにすると、浅井家の滅亡ののちに1582(天正10)年6月に起こった本能寺の変で織田信長(小栗旬)が敗死し、その後明智光秀(要潤)が藤吉郎(池松壮亮)・小一郎(仲野太賀)の豊臣兄弟に討たれるというストーリーになるでしょう。

おそらく25話前後でこうした話が描かれ、政治勢力が大きくなった藤吉郎は、やがて柴田勝家(山口馬木也)との衝突が避けられなくなるという展開が見込まれます。

賤ヶ岳の戦いへ

藤吉郎と柴田勝家はの対決は、やがて1583(天正11)年の4月20日から21日にかけて行われた「賤ヶ岳の戦い」に移るでしょう。

この戦の勝敗は「豊臣兄弟!」の主人公である小一郎が、柴田勝家の先鋒である佐久間盛政の猛攻にどれだけ耐えられるかにかかっています。

最期の描写

佐久間盛政の攻撃を十分にひきつけた小一郎は、兄・藤吉郎の援軍が駆けつけたのち一転して反撃開始。

今度は柴田勝家の本陣を目掛けて逆襲にかかります。一旦崩れた自軍を立て直すことは不可能であることを悟った勝家は、本拠地である北庄城まで撤退。

最期は燃え盛る火の中で、お市(宮﨑あおい)と共に自害することになるでしょう。

豊臣兄弟! 全話あらすじと最終回までのネタバレ

豊臣兄弟! 全話あらすじ

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の全話あらすじや登場する人物たち・人間関係・相関図などについては下記の記事を参考にしてください。

豊臣兄弟! 最終回までのネタバレ

また最終回までのネタバレ・史実・結末などのまとめについては下記の記事が参考になるでしょう。

豊臣兄弟! 柴田勝家はどうなる 関連記事と参考文献

豊臣兄弟! 柴田勝家はどうなる 関連記事

柴田勝家は1582(天正10)6月27日に行われた「清須会議」ののち、織田信長の妹・お市と結婚したことで知られています。

「清須会議」のメインの議題は織田家の当主とその後見人を決めることでしたが、サブの議題として重臣たちの所領割りなど織田家内部における政治的権力を調整することも決められていました。

そのサブの議題の中で柴田勝家とお市の結婚が決定。なぜ柴田勝家とお市の結婚が決定された具体的な理由については、下記の記事が参考になるでしょう。

豊臣兄弟! 柴田勝家はどうなる 参考文献

今回の記事は下記の9冊の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。

NHK出版
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著:KADOKAWA
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