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豊臣兄弟! お市はなぜ柴田勝家と結婚した?最後や娘・茶々との関係も解説

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大河ドラマ「豊臣兄弟!」で宮﨑あおいさんが演じるお市(おいち)は、織田信長の妹として知られる実在人物です。

浅井長政の妻として茶々・初・江の3姉妹を生み、清須会議を経て柴田勝家と結婚(再婚)。しかし賤ヶ岳の戦い柴田勝家が羽柴秀吉に大敗したことで、最後は北庄城で夫・勝家とともに自害しました。

「豊臣兄弟!」でも30話「清須会議」から33話「市の最期」にかけて物語の中心人物として描かれます。

▼ お市の要点まとめ

・織田信長の妹
・浅井長政の妻として茶々・初・江を生む
・清須会議の決定により柴田勝家と結婚
・賤ヶ岳の戦いで夫・勝家が羽柴秀吉に大敗
・最後は北庄城で勝家とともに自害

柴田勝家とは?お市との結婚や賤ヶ岳の戦いを解説
清須会議とは?何が決められたのかを解説
柴田勝家の最期
豊臣兄弟!の茶々とは?

目次

結論|お市とは?

お市(宮﨑あおい)とは、織田信長の妹であり、戦国時代を代表する女性の一人です。

最初の夫である浅井長政との間には、

・茶々(淀殿)
・初
・江

の3姉妹をもうけました。

その後、「清須会議」による決定を経て柴田勝家と結婚(再婚)しますが、1583(天正11)年の賤ヶ岳の戦いで夫・勝家が羽柴秀吉に大敗。最後は北庄城で勝家とともに自害しました。

「豊臣兄弟!」におけるお市は、30話「清須会議」から33話「市の最期」にかけて、秀吉と小一郎にとって乗り越えるべき大きな障壁として描かれています。

▼ 要点まとめ

・織田信長の妹
・浅井長政の妻
・茶々・初・江の母
・柴田勝家と結婚(再婚)
・北庄城で自害

柴田勝家とは?お市との結婚や賤ヶ岳の戦いを解説
清須会議とは?何が決められたのかを解説
柴田勝家の最期
豊臣兄弟!の茶々とは?

豊臣兄弟!でのお市

30話「清須会議」

山崎の戦いののち、信長亡き後の織田家の運営体制を決める「清須会議」が開かれます。

会議の中で羽柴秀吉(池松壮亮)は「当主・三法師を重臣4人が直接補佐する」という案を提案。この案を実現するために、秀吉は柴田勝家(山口馬木也)にお市(宮﨑あおい)と結婚する案も同時に提案。

勝家は秀吉が考えた2つの案を受け入れ、秀吉が提案する新体制に賛成することになります。

柴田勝家とは?なぜお市と結婚したのか?
清須会議とは?何が決められたのかを解説
豊臣兄弟!30話「清須会議」あらすじ

31話「これで、お別れにございます」

「清須会議」の結果、織田信孝(結木滉星)は三法師の名代(後見人)に選ばれなかったにも関わらず、その身柄を自分の居城である岐阜城で引き取ることに。

信孝の行動を危険視した羽柴秀吉は、柴田勝家から信孝を諌めてもらうために、勝家のもとに嫁いだお市(宮崎あおい)に書状を送ります。

ところがお市は、秀吉こそ織田家乗っ取りの野心があると考えており、秀吉の依頼を黙殺。

織田信孝とは? 信長の三男でお市の甥
豊臣兄弟!31話「これで、お別れにございます」あらすじ

32話「賤ヶ岳の決闘」

北庄城にあるお市の居室の中で、娘の茶々(井上和)が自分の覚悟を伝えます。

そこでお市も成長した娘に対して、柴田勝家と羽柴秀吉との大きな戦を前にして、自分が戦う理由を明かします。

賤ヶ岳の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説
豊臣兄弟!32話「賤ヶ岳の決闘」あらすじ

33話「市の最期」

賤ヶ岳の戦いに大敗した柴田勝家は北庄城へ撤退。

追撃する秀吉が城の攻囲を完成させると、勝家はお市の3人の娘たちである、茶々・初・江を城から退去させます。

その後、総攻撃が始まった北庄城の本丸に追い詰められた勝家とお市の夫妻は、燃え盛る火の中で最期を迎えることになりました。

豊臣兄弟!33話「市の最期」あらすじ

お市役は宮﨑あおいさん

大河ドラマ「豊臣兄弟!」でお市を演じるのは宮﨑あおいさんです。

宮﨑さんは、NHK大河ドラマ「篤姫」を始めとして数々の映画やドラマで主演を務めてきた実力派俳優です。

「豊臣兄弟!」では、浅井長政との死別や柴田勝家との再婚、そして北庄城での最期までを演じることになります。

30話「清須会議」から33話「市の最期」にかけては、お市が物語の中心人物の一人として描かれるでしょう。

お市はなぜ柴田勝家と結婚したのか?

大河ドラマ「豊臣兄弟!の時代考証を担当している黒田基樹氏の著作「お市の方の生涯」によると、お市が柴田勝家となぜ結婚したかを示す当時の史料は1つも存在しないと説明されています。

ただ「清須会議」を行った当時の織田家内部の勢力争いや、戦国時代の常識を考えると、お市が柴田勝家と結婚した理由をある程度、推定することは可能です。

お市と柴田勝家の結婚は政略結婚だった

1582(天正10)年6月27日に開催された清須会議において、織田信長の妹・お市は織田家重臣・柴田勝家と結婚することが決まりました。

お市と柴田勝家が結婚した理由は、一種の政略結婚であり、現代に多く見られる恋愛結婚ではありません。

清須会議とは?何が決められたのかを解説

柴田勝家だけが織田信長との姻戚関係がなかった

清須会議の最も大きな議題は、信長亡き後の織田家の運営体制を決めることです。

信長の嫡孫である新しい当主・三法師をどのように支えるかが「清須会議」の最大の争点でした。

結果的に清須会議は、

・柴田勝家
・羽柴秀吉
・丹羽長秀
・池田恒興

の織田家の4人の重臣が三法師を直接補佐することが決定。

そうすると誰か1人の重臣だけが突出した力を持たないよう「力の均衡」を保つ必要があります。

このとき「力の均衡」をとるために重視されたことは、織田信長との姻戚関係です。

実は清須会議の時点で、柴田勝家だけが織田信長と何の姻戚関係も持っていませんでした。

お市と柴田勝家が結婚した理由は信長との姻戚関係を作るため

勝家も信長の実子のうち男子であれば養子に、女子であれば自身の妻にすることも考えられなくはありません。

そうすることによって秀吉・長秀の間で織田家内部における政治的なパワーバランスを保つことができます。

しかし、信長の残った子供たちを「養子候補」や「妻候補」として見ると、全て幼少すぎるという問題がありました。そこで代わりに浮上した案が、勝家は信長の妹・お市と結婚するという案です。

「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんの著作「お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像」によると、「清須会議」でお市と柴田勝家が結婚した理由をこう指摘しています。

また新たな織田体制における双璧が、秀吉と勝家であったことは間違いなく、そのうち秀吉は信長実子と姻戚関係にあった。したがって勝家も、それに匹敵する姻戚関係の形成をはかったに違いない。その場合、秀吉と同じく、信長の実子の男子を養子に迎えるなり、娘を嫡男の妻に迎えるという方法もあったであろう。しかし当時、秀吉養嗣子の秀勝よりも下の信長の男子は、まだ元服前であったし、娘は結婚するには年少すぎるものばかりであったから、それらは現実味がなかったのであろう。その結果として、採用されたのが、信長の妹と勝家の結婚であったのではなかろうか。

黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書) (p. 110). (Function). Kindle Edition.

このようにお市と柴田勝家の結婚とは、恋や愛といった感情に基づく恋愛結婚ではなく、織田家の運営を円滑に行うため行われた一種の「政略結婚」だったと考えられます。

お市と柴田勝家の年齢差は28才

ちなみに清須会議の決定で結婚した時のお市の年齢は数え年で33才、柴田勝家は61才です。

夫婦の年齢差は28才でしたが、恋愛結婚ではなく政略結婚という性質上、年齢差はあまり問題視されなかったと考えられるでしょう。

柴田勝家とは?お市との結婚や賤ヶ岳の戦いを解説
清須会議とは?何が決められたのかを解説

お市と柴田勝家の仲は良かったのか?

柴田勝家がお市のことを好きだったどうか史料で説明することはできない

現代では、

「柴田勝家はお市に恋愛感情を寄せていた。だから夫婦仲も良かったのでは?」

と語られることもあります。

ところが「柴田勝家がお市に想いを寄せていた」とする考え方は、江戸時代前期に成立した「村井重頼覚書」や、江戸時代中期に成立した「祖父物語」に基づく説で、清須会議が行われた当時の記述ではありません。

したがって上述した黒田基樹氏は、柴田勝家はお市に想いを寄せていたとする説に対して、「お市の方の生涯」において「低俗な憶測の可能性が高いと思われる」と反論を投げかけています。

表面上は政略結婚を受け入れていたと考えられる

このように戦国時代当時の史料から、お市と柴田勝家の夫婦仲が良かったのかどうか、判別することは難しいでしょう。

ただ戦国時代の時代背景を考えると、政略結婚は当たり前の時代であり、お市も柴田勝家も名のある武士の家の子として生まれています。

加えて2人が結婚した年齢は、世間のことが全く分からないような若年ではありません。

性格の相性などの内面的なことはともかくとして、表面上は仲違いすることは少なかったのではないかと推測できます。

お市の最後

お市は1583(天正11)年4月24日早朝、越前・北庄城の本丸において自害しました。

享年は32才から34才だったと考えられます。

落城前に3人の娘を北庄城から退去させる

1583(天正11)年4月20日から21日にかけて行われた賤ヶ岳の戦いにおいて、お市の夫・柴田勝家は羽柴秀吉に大敗。

同年の4月23日に羽柴秀吉は北庄城の攻囲が完了すると時を分かたず総攻撃を始めます。

お市の3人の娘である、茶々・初・江が城を退去する際、一時的に両軍の戦闘が停止しましたようですが、秀吉は4月24日午前3時ごろから攻撃を再開。

北庄城で最期を迎える

やがて主な戦闘は二の丸と本丸で繰り広げられるようになります。

勝家は天守閣の最上階まで退き、押し寄せてくる秀吉軍の将兵たちに向かい「これからわれわれは自決する」と大声で宣言したようです。

これをうけてお市の方、それに勝家の妾一二人、三〇人余りの女房衆たちは、最期にあたって念仏を唱えはじめた。その光景は、柳の枝が風に揺れるように、桃の花に露がついているようなものであったという。これにはどれほど邪見(因果の道理を無視する考え)の人であっても、剣をとって殺しにくることはないだろうとして、勝家は一人一人を刺し殺し、そのうえで切腹の様子を見ろ、として、まず左脇に刀を指して、右の背骨まで切りつけ、返す刀で胸の下から臍の下まで切って、内臓を搔きだした。そして近臣の中村文荷斎に、首を打つよう命じ、文荷斎によって介錯されたという。そして文荷斎も、切腹し、信頼ある家臣八〇人余も、互いに刺し違えたり、自害したりして、ついに柴田家は滅亡したのであった。

黒田基樹. お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書) (p. 128). (Function). Kindle Edition.

こうしてお市は、1583(天正11)年4月24日の早朝、柴田勝家によって刺し殺される形で最期を迎え、その波乱に満ちた生涯を終えました。

お市は何歳で死んだ?

お市の生年については諸説があります。

ただ黒田基樹氏の著作である「お市の方の生涯」の記述に基づくと、お市は1550(天文19)年生まれであると説明されています。

そのため北庄城で自害した際には、お市の享年は数え年で33才から34才であり、現代の満年齢に基づくと32才から33才であったと考えられるでしょう。

お市はなぜ北庄城で自害したのか?

お市が北庄城で柴田勝家と共に自害した理由を一言で説明すると、「柴田・羽柴間の外交に失敗したから」という理由が可能性としてが最も高いと考えられます。

現代的な恋愛観「夫婦が共に愛し合っていたから」という可能性は低いでしょう。

戦国時代の「大名の妻」は「現代の外交官」

戦国時代の大名家やそれに準じる家格同士で行われる婚姻とは、個人の愛情に基づくものではなく、現代でいう外交によるものでした。

当時の婚姻には、大名間でトラブルが生じて「表の外交ルート」が途絶したときに、「裏のルート」で常に外交を続けると言う役割が与えられていました。

そうでないともし両家の間で戦争状態に突入すると、コミュニケーションが全く取れなくなり、互いが共倒れするまで戦が続く恐れがあります。泥沼化した戦争状態は、戦国大名の生き残り戦略としては正しくありません。

共倒れにならないよう、大名間の「裏の外交」を担当していたのが、お市のように他家に嫁いだ女性だったのです。

戦国大名家・国衆家同士の婚姻関係は、いわば国家と国家の外交関係にあたった。敵対関係になったからといって離婚したのでは、両国の外交ルートは全く存在しなくなってしまう。むしろ敵対関係になったからこそ、当主・家臣による表向きの外交ルートは断絶しても、婚姻関係による内向きの外交ルートとして機能することができるのである。

黒田基樹. お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書) (p. 79). (Function). Kindle Edition.

お市は外交官として失敗したから責任を取って自害した

結果的にお市は柴田勝家と運命を共にすることになります。

しかし戦国時代の価値観からすると、お市に柴田勝家に対する愛情があったから死を共にしたという理由は極めて小さかったでしょう。

柴田勝家と羽柴秀吉との仲介をできなかった「失敗した外交官」として、その責任を取ると言う意味合いの方が、はるかに大きかったと考えられます。

柴田勝家とは?お市との結婚や賤ヶ岳の戦いを解説

お市の死後 その後の3人の娘の人生

お市は死の直前に秀吉に3人の娘たちを託していた

お市は夫・柴田勝家と北庄城の本丸で自害する直前、秀吉に対して直筆の書状を送りました。その内容は3人の娘である、茶々・初・江を庇護してもらうよう依頼する内容でした。

お市が、自分とともに3人の娘を死なせずに羽柴秀吉に引き渡した理由は、娘たちが柴田勝家と養子縁組をしていなかったことや、秀吉にとって信長は特別な存在で、その姪にあたる娘たちを決して粗略に扱わない確信があったためです。

3人の娘たちが城から退去する際には、北庄城の三の丸と思われる建物にまで姿を現して見送ったと言われています。

茶々とは誰?豊臣秀吉の側室となった浅井三姉妹の長女

3人の娘たちのその後の人生

3人の娘のうち、長女・茶々は秀吉の側室に迎えられ、次女・初は京極高次に、三女・江は最初、豊臣秀勝のちに徳川秀忠に嫁いだことで知られています。

またそれまでの間も、秀吉が安土城・姫路城・大坂城と本拠地を移す間、行動を共にしており、彼女たちは「織田家の姫」として扱われていたと指摘されています。

茶々と豊臣秀吉の関係とは?

茶々によって行われたお市の供養

お市の死後の供養については、1589(天正17)年に、長女の茶々によって、七回忌の法要が行われていることが確認されています。

お市の七回忌の法要には、3人の娘の父である浅井長政の十七回忌の法要もなされました。

FAQ|お市

Q. お市は誰ですか?

A. 織田信長の妹で、浅井長政と柴田勝家の妻となった戦国女性です。

Q. お市はなぜ柴田勝家と結婚したのですか?

A. 清須会議後の政治的バランスを保つための政略結婚だったと考えられています。

Q. お市と柴田勝家の仲は良かったのですか?

A. 詳細は不明ですが、最終的に北庄城で運命を共にしています。

Q. お市の娘は誰ですか?

A. 茶々・初・江の3姉妹です。

Q. お市は何歳で亡くなりましたか?

A. 黒田基樹氏は32〜34歳前後としています。ただし生年には諸説あります。

お市に関連する人物たち

織田信長: お市の兄

織田信長はお市の兄です。信長とお市は共に同じ父(織田信秀)と母を持っていました。

織田信長とは?その最期について

浅井長政: 最初の夫

浅井長政はお市の最初の夫です。織田家と浅井家の同盟を実現するために1567(永禄10)年から1568(永禄11)年ごろの時期に政略結婚をしていたと考えられています。

浅井長政の最期

柴田勝家: 2番目の夫

柴田勝家はお市の2番目の夫です。「清須会議」での決定に基づき、政略結婚をしたと考えられています。

柴田勝家とは?お市との結婚や賤ヶ岳の戦いを解説

茶々: お市の長女

茶々はお市と浅井長政の間に生まれた長女です。

北庄城が落城したのちは、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)によって庇護されることになります。

茶々とは誰?豊臣秀吉の側室となった浅井三姉妹の長女
茶々と秀吉の関係とは?

お市に関連する歴史的事件

清須会議

お市と柴田勝家の政略結婚が決まった会議です。

清須会議とは?何が決められたのかを解説

賤ヶ岳の戦い

お市の運命を決定づけた戦いです。

賤ヶ岳の戦いとは?戦局と戦闘の推移を解説

豊臣兄弟!ネタバレ最終回と全話あらすじ

豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の最新話から1話までのあらすじ・ネタバレ・月別の流れを整理したい方は、下記の記事を参考にしてください。

豊臣兄弟!あらすじ全話まとめ|最新話までの流れを簡単解説

豊臣兄弟!最終回までのネタバレ

「豊臣兄弟!」の最終回までの流れや、本能寺の変・山崎の戦い・賤ヶ岳の戦いなど今後の展開については、下記の記事で詳しく解説しています。 

豊臣兄弟!ネタバレ最終回まとめ|本能寺の変から豊臣秀吉の天下統一まで解説

参考文献

今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。

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