べらぼう 蔦屋重三郎の本名と生い立ち 丸山柯理 喜多川柯理

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蔦屋重三郎の本名

7歳までの本名は丸山柯理

2025年大河ドラマ「べらぼう」の主人公・蔦屋重三郎(蔦重・重三)(横浜流星)は、1750(寛延3)年1月7日に江戸・吉原で生まれます。

蔦屋重三郎の本名は喜多川柯理(きたがわからまる)と言いますが、生まれたのち7才までは丸山柯理(まるやまからまる)と名乗っていました。

唐丸(からまる)は柯理(からまる)から

「べらぼう」の1話で火事の騒ぎの中で、蔦屋重三郎はみなしごらしきの少年(渡邉斗翔)を拾ってきて「唐丸(からまる)」と名付けます。

この「唐丸」という名前は、蔦屋重三郎の幼名が「丸山柯理」であったことからきていると考えられます。

蔦屋重三郎のあだ名

蔦重(つたじゅう) 唐丸の場合

蔦屋重三郎は「べらぼう」の1話で自分のことを「蔦重(つたじゅう)」と呼んでいますね。おそらく通称である「蔦屋」と、下の名前である「重三郎」を足してできたあだ名であると考えられます。

また唐丸(からまる)も蔦屋重三郎のことを「蔦重」と呼びます。

重三(じゅうざ)花の井・次郎兵衛の場合

その蔦屋重三郎の義兄・次郎兵衛(中村蒼)は、義弟のことを「重三(じゅうざ)」と呼びます。

次郎兵衛は吉原につながる五十間道で茶屋「蔦屋」を自分で経営しています。そのため義弟である蔦屋重三郎のことを「蔦重」とは呼びにくくて、「重三」と下の名前を省略して呼んでいるのかもしれません。

他にも幼なじみで花魁の花の井(のちの五代目瀬川)(小芝風花)も蔦屋重三郎のことを重三と呼びます。

ありがた山(ありがたやま) 田沼意次の場合

初対面のときは「蔦の重三」と呼んでいますが、のちに田沼意次は蔦屋重三郎のことを「ありがた山(ありがたやま)」と呼びます。

これは蔦屋重三郎が、初めて意次に会ったとされるべらぼう 1話で、「ありがた山の寒がらす」という「地口(江戸っ子が使う洒落言葉)」を使ったことから来ています。

蔦屋重三郎 実の父と母について

丸山重助と広瀬津与

大河ドラマ「べらぼう」では、駿河屋市右衛門(するがやいちえもん)(高橋克実)が養父で、その妻・ふじ(飯島直子)が養母という設定になっています。

もちろん、実在した蔦屋重三郎にも実の父と母がいて、丸山重助(まるやまじゅうすけ)と広瀬津与(ひろせつよ)であったと伝わっています。

蔦屋重三郎の実父 丸山重助とは?

父の名前が「重助」であったことから、蔦屋重三郎の「重」の一字は、父の名前から来ていると考えられます。

しかし丸山重助が、尾張国(現在の愛知県)出身であったこと以外、生い立ちや職業など、どのような人物であったかは後世に全く伝わっていません。

蔦屋重三郎の実母 広瀬津与とは?

実父・重助に関する資料が存在しないことに比べると、広瀬津与がどのような人物であったかは現在にまで伝わっています。

石川雅望(いしかわまさもち)や大田南畝(おおたなんぼ)の手による、母・津与への顕彰文が蔦屋重三郎の墓碑に刻まれているからです。

それによると母・津与は江戸の生まれであることが分かり、まだ柯理と呼ばれていた幼い蔦屋重三郎は津与を相当慕っていたと考えられます。

蔦屋重三郎 養父・駿河屋市右衛門(喜多川氏)

丸山重助と広瀬津与が離婚 駿河屋の養子に

丸山重助と広瀬津与の夫婦は、蔦屋重三郎が7才の時に離縁(離婚)します。なぜ2人が離縁したのかは分かっていません。

そこで吉原・仲の町通で引手茶屋を営む駿河屋市右衛門が、まだ幼かった蔦屋重三郎を引き取り、養子として育てます。

大河ドラマ「べらぼう」1話の設定にある通り、駿河屋市右衛門は蔦屋重三郎のように幼くして両親のいない子どもを引き取っては、自分が経営する引手茶屋を手伝わせていたようです。

蔦屋重三郎が「喜多川柯理」である理由

駿河屋市右衛門は、本姓として「喜多川氏」を名乗っており、蔦屋重三郎は新しい親ができたことから、自分の本名も「丸山柯理」から「喜多川柯理」に変わります。

この「喜多川」という名前は、「べらぼう」で今後登場することが予定されている、喜多川歌麿(染谷将太)に、やがて引き継がれていくことになります。

「蔦屋」はどこから?

では蔦屋重三郎の屋号である「蔦屋」という通称はどこから来ているのでしょうか?

駿河屋市右衛門が経営している茶屋の一つで、吉原大門に通じる道である「五十間道(ごじっけんみち)」に「蔦屋」という店の名前をした茶屋がありました。

駿河屋市右衛門は柯理をその「蔦屋」を手伝わせていたことから、蔦屋という通称が来ていると考えられています。

蔦屋重三郎の実家は本屋ではなかった

近年では蔦屋重三郎は「江戸のメディア王」として称され、江戸時代中期の出版業界で名を馳せた商人と評されています。

しかし蔦屋重三郎の実家は地本問屋・書物問屋などの本屋・出版社などではありませんでした。実家の生業は女郎屋に所属する女郎と、遊郭に遊びに来た客を仲介する引手茶屋でした。

蔦屋重三郎と貸本屋

「べらぼう」1話では、横浜流星さん扮する蔦屋重三郎が貸本屋として、本を貸して回る仕事をしているシーンがあります。

このときの蔦屋重三郎の本業は茶屋の奉公人であり、貸本屋の方はリターンは低いが、リスクも低い副業のような位置付けです。

資金を確保してから商いを始める蔦屋重三郎

ただ駆け出しの蔦屋重三郎が本の貸し歩きをする姿は、利益の観点からすると「手堅い商売」を心がけていたという証でもあります。

この手堅い姿勢は、のちに吉原のガイドブックとも言える、遊女評判記「一目千本(ひとめせんぼん)」を作るときの資金調達方法につながるのです。

蔦屋重三郎は「堅実」を信条とする商売人

蔦屋重三郎は本や絵などの出版物を発行する際に、どこから(Where)・どのように(How)・いくら資金を得られるか(How much)、それぞれ見込みがたった上で商売を始めます。

異業種から出版業界に飛び込む蔦屋重三郎ですが、ビジネスにおいては決して冒険などしない、いわゆる「堅実経営」をモットーとしていました。

蔦屋重三郎の狂歌名 蔦唐丸(つたのからまる)

狂歌を読み狂歌連も作って文化人と交際した蔦屋重三郎

蔦屋重三郎と名前といえば、蔦屋重三郎は通り名や本名の他に、「蔦唐丸(つたのからまる)」という狂歌名も持っていました。

蔦屋重三郎は書物を発行すると言う仕事柄、一流の文化人と交際をする必要があります。当時で言うところの「通人(つうにん)」との遊びをすることも、仕事をする上でのたしなみでした。

彼らと対等に付き合うための教養と箔をつけるために蔦屋重三郎は自分でも狂歌を読み、狂歌連(狂歌のサークル)まで作っていました。

蔦唐丸(つたのからまる)というペンネームについて

狂歌とは日常的な題材を扱った、俗語やしゃれ、風刺を盛り込んだ五・七・五・七・七調の短歌です。そのペンネームを、自分の幼名と屋号になぞらえ、洒落っ気満点の「蔦唐丸」とするところは、いかにも江戸時代の文化人といった感じです。

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