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羽柴秀勝(於次丸) 豊臣秀吉・寧々の養子 元は織田信長の五男

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目次

羽柴秀勝(於次丸)の名前について

羽柴秀勝(於次丸)とは

羽柴秀勝(於次丸秀勝)(1568~1585年)とは、羽柴秀吉(2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の藤吉郎。のちの豊臣秀吉)が近江国長浜12万石を統治していた時代に、正妻(正室)の寧々とともに養子縁組をした子供です。

於次丸秀勝は織田信長の五男でしたが、主に中国地方を所領としていた毛利家の征伐に従軍する秀吉の養子として、長浜領の統治代行者あるいは統治者として成長。

さらに1582(天正10)に発生した本能寺の変のあとに行われた「清須会議」では羽柴秀吉の所領として山城と丹波の2カ国が新たに加えられ、その結果、於次丸秀勝は丹波亀山城とその所領の統治を任されることになります。

羽柴秀勝(於次丸)の名前

後世に「於次丸秀勝(おつぎまるひでかつ)」と伝わっているように、秀吉・寧々夫妻の養子となった羽柴秀勝は幼名を「於次丸」です。そのほかにも「御次丸」・「御次」・「次」と呼ばれることもあります。

3人の秀勝

豊臣秀吉の親族を調べていると「秀勝(ひでかつ)」という実名を名乗った男性は3人いたことが分かります。

スクロールできます
名前生年と死没年説明
羽柴秀勝
(石松丸)
?~1576年秀吉の側室・南殿との間にできた実子
羽柴秀勝
(於次丸)
1568~1585年元は織田信長の五男で秀吉・寧々夫妻の養子
豊臣秀勝
(小吉)
1568~1592年瑞竜院殿日秀尼三好吉房の次男

秀吉・寧々夫妻の養子となった羽柴秀勝は、他の秀勝と区別するために「次秀勝(つぎひでかつ)」と呼ばれることがあります。

なお「3人の秀勝」を比較するために「秀勝 3人 羽柴秀勝(石松丸) 羽柴秀勝(於次丸) 豊臣秀勝(小吉)」という関連記事も公開しています。合わせて参考にしてください。

羽柴秀勝(於次丸)の出自と家族

羽柴秀勝(於次丸)の出自

上述したように於次丸秀勝の実家は織田家であり、父は織田信長で、母は養観院(ようかんいん)という女性です。養観院の出自は分かっていません。

於次丸は織田信長の四男から五男か?

インターネット上でGoogle検索などを使って於次丸秀勝の出自を調べていると、「於次丸秀勝は織田信長の四男である」という記述を見かけることがあります。

しかし大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんによると、於次丸秀勝は信長の四男ではなく、五男であると指摘されています。

石松丸秀勝の死去後に、養嗣子として迎えたのは次秀勝である。織田信長の子息であるが、江戸時代成立の系図史料では信長の四男に位置付けられているため、ながく信長の四男とされてきたが、谷口克広氏によって、信長の子息の動向の検討により、正しくは五男であることが指摘されている(「信長の兄弟と息子の出生順」柴裕之編『織田氏一門』所収)

黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) 148ページ

羽柴秀勝(於次丸)の家族

上述したように御次丸秀勝の両親として実父・織田信長、実母・養観院のほかに養父・羽柴秀吉と養母となった寧々がいます。

また1584(天正14)年12月に毛利輝元の養女として結婚し、名前不明ではあるものの、妻がいたことが知られています。

織田信長在世中の羽柴秀勝(於次丸)の動向

羽柴秀吉・寧々夫妻の養子に

於次丸秀勝が秀吉・寧々夫妻の養子であったことはよく知られていますが、正式に養子縁組をした時期については分かっていません。

羽柴秀吉とその一族」によると、秀吉・秀勝が養子縁組をすでに養子縁組をしていることを証しする史料として、最も早く登場するのは1580(天正8)年のこと。

同書は長浜八幡宮に奉加する際に秀吉とともに「次秀勝」と署名をしていることが認められると指摘しています。

秀吉による中国出陣に伴って長浜の統治者に

1580(天正8)年といえば、秀吉は織田信長の命令によって中国地方の大部分を所領としていた毛利家と対峙していた時期です。そのため秀吉は播磨・但馬・因幡方面に出陣し、本拠地としていた長浜からたびたび離れていました。

そこで於次丸秀勝が1581(天正9)年2月ごろから秀吉の代行者として長浜領の統治をするようになり、次第に長浜の家臣である山内一豊・伊藤祐時・尾藤知宣(宇多頼忠の兄)などに対する軍事指揮権を行使するようになります。

織田信長死後の羽柴秀勝(於次丸)の動向

清須会議の後に丹波亀山の地を与えられる

1582(天正10)年6月2日に京都で本能寺の変が起こり、於次丸秀勝の実父・織田信長が死亡。

同年6月27日には織田家重臣の間で行われた清須会議では羽柴秀吉の領国として、山城・丹波の2カ国が加増。これらのうち丹波亀山が於次丸秀勝の所領に設定されます。

また同年10月には羽柴秀吉主導の下、大徳寺で信長の葬礼が行われ、その喪主を御次丸秀勝が務めることになります。

小牧・長久手の戦いに出陣

さらに1584(天正12)年の小牧長久手の戦いでは3月16日に秀吉の弟・秀長とともに秀吉本軍の別働隊として伊勢松ヶ島城を攻撃するという働きを見せています。

三月十六日、秀吉は、羽柴秀長・同秀勝・蒲生氏郷・関万鉄らに命じて、伊勢の松が島城を攻略させた。城主滝川雄利は、信雄からの援将日置大膳亮や、家康の部将服部半蔵(正成)らと協力し、防戦につとめた。そこで、秀吉は、さらに、田丸具康・九鬼嘉隆に命じ、水軍をもって、松が島の海上を封鎖させたのである。そのため、城中では兵粮が乏しくなり、餓死する者が続出することを見越し、滝川雄利は、諸将の意見を容れ、ついに城を羽柴軍に明け渡し、海路、尾張にのがれることになった。

桑田 忠親. 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (p. 239). (Function). Kindle Edition.

その後の於次丸秀勝

小牧長久手の戦いののち、於次丸秀勝は1584(天正12)年12月26日に毛利輝元の養女と大坂城で結婚をするも、翌年の1585(天正13)年には病死。享年18。

於次丸秀勝が領国としていた丹波亀山の地は、秀吉の甥で、日秀尼(大河ドラマ「豊臣兄弟」のともにあたる女性)の次男・小吉秀勝に引き継がれることになります。

羽柴秀勝(於次丸)の参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。これらの著者のうち黒田基樹さんは2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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戎光祥出版
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