豊臣秀長には何人の妻がいたのか
豊臣秀長には妻が何人いたのか→正室1人(慈雲院)と側室2人(摂取院光秀ときくの母)
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・小一郎(仲野太賀)はのちに豊臣秀長(1540~1591年)と呼ばれることになります。その豊臣秀長には何人の妻がいたと考えられているのでしょうか?
秀長には妻と呼べる女性が少なくとも3人はいたと考えられています。
正室(正妻)の慈雲院(じうんいん「豊臣兄弟!」にキャストされている吉岡里帆さんが演じる慶にあたる女性)を筆頭として、側室(別妻)には摂取院光秀(せっしゅいんこうしゅう)という女性と、秀長の次女・きくを出産した女性の2人がおり、合計3人の妻がいたことが判明しています。
豊臣秀長 3人の妻 まとめ
豊臣秀長の3人の妻はそれぞれ1人ずつ子供を出産しており、いずれも豊臣秀長の実子に当たります。
| 妻の名前 | 立場 | 子供の名前と続柄 | 子供の生年 | キャスト |
|---|---|---|---|---|
| 慈雲院(慶) | 正室 (正妻) | 羽柴与一郎(長男) (木下与一郎) | 1568(永禄12)年ごろ | 吉岡里帆 |
| 摂取院光秀 | 側室 (別妻) | 秀保の妻(長女) (名前不明) | 1587(天正15)年 | 未定 |
| 不明 | 側室もしくは妾 | きく(次女) (大善院) | 1588(天正16)年 | 未定 |
豊臣秀長の正室(正妻)について
豊臣兄弟!の慶(ちか)が慈雲院のモデル
大河ドラマ「豊臣兄弟!」では豊臣秀長の正室(正妻)にあたる女性を「慶(ちか)」として吉岡里帆さんをキャストし、慶の役柄を以下の通りに設定しています。
小一郎の正妻として生涯をともに歩む 小一郎の正妻。のちの慈雲院(じうんいん)。 激動の時代を生き抜き、やがて兄嫁の寧々とともに豊臣兄弟を支える存在となる。夫の秀長が大和国の統治を任されると、ともに大和郡山城に入り、夫の晩年まで連れ添う。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」のガイドブックである「豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)」によると、慶は第12話「小谷城の再会」で「美濃三人衆」と呼ばれている安藤守就(田中哲司)の娘として登場。
続く第13話「疑惑の花嫁」で小一郎(仲野太賀)と政略結婚をすることになります。
豊臣秀長の正室・慈雲院の名前と出自について
しかし実のところ「豊臣兄弟!」の慶のモデルとなった慈雲院は実名だけでなく出自も不明です。
慈雲院は織田家の直臣の娘であると推定されるだけで、具体的に「慶は安藤守就の娘」という設定はかなり創作の要素が入っているでしょう。
ただ「豊臣兄弟!」は小一郎と慶が結婚する第13話「疑惑の花嫁」の年代は1569(永禄13)年ごろと設定しています。
実在した豊臣秀長と慈雲院の間に生まれた長男・与一郎は1568(永禄12)年ごろに誕生したと推定されていますので、小一郎と慶が結婚する年についてはおおむね史実に沿っているのではないかと考えられます。
慈雲院の動向
慈雲院の前半生はほとんど不明です。
しかし豊臣秀長が大和国を統治し始めた1585(天正13)年から、1594(文禄3)年に秀長と慈雲院の養嗣子である豊臣秀保が亡くなるまでの間については、慈雲院の動向は比較的明らかになっています。
その間の慈雲院の動向を年表にすると以下の通りとなります。
| 西暦(和暦) | 出来事 |
|---|---|
| 1566(永禄9)年※ | 秀長と結婚 |
| 1568(永禄11)年※ | 長男・与一郎が誕生 |
| 1582(天正10)年 | 長男・与一郎が死去 |
| 1585(天正13)年9月 | 秀長と共に大和郡山に入部 |
| 1586(天正14)年5月 | 秀長の母・天瑞院殿が大和郡山を訪問。共に春日大社・高野山を参詣 |
| 1588(天正16)年9月 | 徳川家康・毛利輝元の大和郡山城訪問に伴い進物を贈られる |
| 1589(天正17)年9月 | 秀吉による人質政策の一環として京の聚楽第屋敷に居住 |
| 1590年(天正18)年4月 | 秀長の病気看護のために大和郡山に戻る。興福寺に病気回復の祈祷を依頼 |
| 1590年(天正18)年5月 | 秀長の母・天瑞院殿とともに春日大社を参詣 |
| 1590年(天正18)年9月 | 大和国の各寺社に秀長快復の祈祷を指示し、家臣・横浜良慶(横浜一庵)を通じて寺社領を返還 |
| 1591年(天正19)年1月 | 養嗣子・秀保が秀長の長女との婚姻を交わす |
| 1591年(天正19)年1月22日 | 秀長が死去。秀保が後継 |
| 1591年(天正19)年2月 | 秀保・秀保の妻と共に上洛。大徳寺の長老3人の助命を天瑞院殿ともに秀吉に嘆願 |
| 1593(文禄2)年 | 秀保と秀長長女の婚儀が執り行われる |
| 1594(文禄3)年 | 秀保が死去。秀長の家系は断絶 |
豊臣秀長の2人の側室(別妻)について
1人目の側室: 摂取院光秀
豊臣秀長の1人目の側室は摂取院光秀または光秀尼という名前で知られています。「摂取院光秀」や「光秀尼」という名前は法名のことで、実名は分かっていません。
「豊臣兄弟!」で摂取院光秀に相当する女性が登場するならば、「寧々(浜辺美波)」や「直(白石聖)」のような俗世で使っていた名前で登場することになるでしょう。
摂取院光秀は大和国の筒井家に仕えていた秋篠伝左衛門尉の娘として、初めは秀長の女房衆として仕え、1587(天正15)年に秀長の長女を出産したことで、側室(別妻)の立場に引き上げられたと考えられています。
2人目の側室: 「きく(大善院)の母」
豊臣秀長の側室としては摂取院光秀の存在は非常に有名ですが、実は側室と思われる女性が少なくともあと1人います。
なぜならその女性は豊臣秀長の次女となる「きく」もしく「おきく」と呼ばれる女の子を出産しているからです。きくは豊臣秀長の死後に豊臣秀吉の養子となり、毛利秀元に嫁ぎ、亡くなったときには「大善院」という法名をおくられていることが分かっています。
さらにきくの実母は正室の慈雲院でもなく、側室の摂取院光秀でないことも分かっています。
「きくの母」は出自どころか名前も不明であるため、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんは自著の中で秀長の側室として「きくの母」の存在を認めつつ、詳細について多くは説明していません。
きくの母については判明しない。誕生の時期から考えて、正妻の慈雲院でなかったことは間違いないだろう。では姉の秀保妻と同母であったろうか。しかし誕生年が一年違いでしかなかったことを見ると、その可能性は低いと思われる。秀保妻の母摂取院とは別人から生まれた可能性が高いと考えられる。
なお「きくの母」は1594(文禄3)年に、秀長の後継者である豊臣秀保と摂取院光秀の娘が結婚したときに、祝儀として進物を贈られていなかったことから、側室ではなく妾であった可能性も指摘されています。
豊臣秀長の妻は3人 関連記事と参考文献
豊臣秀長の妻は3人 関連記事
豊臣秀長の妻については以下の記事でも紹介しています。合わせて参考にしてください。
豊臣秀長の妻は3人 参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんと柴裕之さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
