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豊臣兄弟! 朝倉義景はどうなる?滅亡の理由と史実ネタバレ|最期まで解説

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目次

朝倉義景はどうなる?結末と最期【最初に知りたい人向け】

朝倉義景は最終的にどうなった?(敗北・逃亡・自害)

「豊臣兄弟!」に登場する朝倉義景は、1573(天正元)年8月20日に自害しました。

「刀根坂の戦い」で織田信長に敗北し、本拠地・一乗谷で従弟の朝倉景鏡に裏切られた末の最期でした。

なぜ滅亡したのか(結論)

朝倉義景が自害し朝倉家が滅亡した原因は、朝倉義景の戦略的判断の遅さに起因します。

武田信玄の上洛に合わせて挙兵することができず、その後も全て織田信長に機先を取られた末に滅亡しました。

最期はどのように迎えたのか

朝倉義景が「刀根坂の戦い」で致命的な敗戦を喫した後は、味方する武将も現れず、最期は従弟に裏切られるという悲惨な最期でした。

義景が自害したのちの首は、その従弟である朝倉景鏡(かげあき)によって信長のもとに持ち込まれたと言われています。

朝倉義景とはどんな人物か(簡単に解説)

朝倉義景は越前を治めた戦国大名

朝倉義景(1533~1573年)は、越前国(現在の福井県)を本拠とした戦国大名で、戦国時代中期において北陸有数の勢力を誇った人物です。

本拠地の一乗谷は政治・文化の中心地として発展し、公家文化を取り入れた華やかな城下町が形成されていました。

室町幕府と関係の深い名門当主

越前朝倉家はもともと越前国守護であった斯波氏に仕える守護代の家柄でした。義景の4代前にあたる朝倉孝景の代に斯波氏に代わって実権を握り、戦国大名へと成長しました。

またのちに室町幕府第15代将軍となる足利義昭が、1568(永禄11)年7月に織田信長に頼る前は、朝倉義景によって庇護されていました。

こうした経緯から、朝倉家は室町幕府との関係も深く、将軍家と結びついた有力勢力の1つとして数えられています。

朝倉義景と足利義昭・浅井長政との関係

反信長包囲網の中心人物としての立場

朝倉義景は、織田信長に対抗する勢力の一角として、1569(永禄13)年ごろから1573(天正元)年にかけて築かれていた「反信長連合」の一角を担う人物です。

義昭を奉じた信長は、将軍の権威を借りて朝倉義景に対して上洛をたびたび促しますが、義景は無視。義景が上洛を果たすことは生涯ありませんでした。

足利義昭・浅井長政との連携

1570(元亀元)年4月下旬、織田信長は上洛命令に従わないという名目で朝倉領への侵攻を開始。

朝倉義景は越前の金ヶ崎城を包囲されますが、長年の同盟関係にあった浅井長政が朝倉側に味方する意思を明らかにしたため、信長を撃退することに成功(「金ヶ崎の退き口」)。

以降、3年以上にわたって朝倉義景は浅井長政と共闘し、信長に対抗するようになります。

一方、足利義昭はこの間、畿内各地とその周辺諸国に存在した信長の対抗勢力(比叡山延暦寺・石山本願寺・三好三人衆・武田信玄・長宗我部元親)などと通じ「反信長包囲網」を形成。

越前や北近江を本拠地とする朝倉義景や浅井長政も、その「反信長包囲網」の一員として考えられていました。

朝倉義景はなぜ織田信長に敗れたのか【最重要】

姉川の戦いとその影響

1570(元亀元)年6月、「金ヶ崎の退き口」で手痛い敗戦を喫した織田信長は復讐を期して同盟関係にある徳川家康とともに、岐阜から北近江の浅井領に侵攻。

朝倉義景は浅井長政と連合軍を組んで、織田・徳川勢と姉川で激突(「姉川の戦い」)。一般的に「姉川の戦い」は織田・徳川連合軍が、朝倉・浅井連合軍に勝利したと言われています。

しかし織田・徳川連合軍は戦闘では勝利したものの、戦略的にはそれほど大きな成果を得られませんでした。

「姉川の戦い」の敗戦は朝倉義景と浅井長政にとって手痛いものだったかもしれませんが、戦略的に見ると致命傷ではなかったのです。

「反信長包囲網」を活用した朝倉義景

足利義昭によって築かれた「反信長包囲網」が有効に機能していた頃は、「姉川の戦い」で敗戦していたにも関わらず、朝倉義景と浅井長政の反抗は信長を大いに苦しめます。

三好三人衆が摂津で挙兵すると信長は摂津野田及び福島に進出しますが、それに呼応して朝倉と浅井は南近江で挙兵。

彼らが宇佐山城を守る織田信治(信長の弟)と森可成を戦死させることに成功すると、信長は大慌てで摂津の陣を撤収して近江に向かって出陣。

しかし今度は延暦寺と共闘して比叡山に立て籠もり、信長に付け入るスキを与えさせないなど、朝倉義景と浅井長政は、信長よりも優位に立って戦略を展開していました。

戦略的判断の遅さと機会損失

しかしそんな「反信長包囲網」が崩壊し始めたのが1572(元亀3)年の年末から1573(元亀4)年の年始にかけての時期です。

「戦国最強」とも言われた騎馬軍団を擁する甲斐の戦国大名である武田信玄が、上洛を決意。1572(元亀3)年12月に遠江国の三方ヶ原で徳川家康に大勝すると、信玄は朝倉義景と浅井長政に対して、南と北から信長を挟み撃ちにしようと持ちかけました。

ところが朝倉義景は信玄の提案に対して何の反応も示しません。朝倉義景が返事をぐずぐずと先延ばししている間に、信玄は三河国の野田で発病。結局、信玄は、甲斐へ引き返す途上にある信州の駒場で、1573(元亀4)年4月12日に死去しました。

朝倉義景は、信玄のオファーに乗らなかったことによって、後で取り返しのつかないほどの機会損失を被ることになるのです。

崩壊する「反信長包囲網」

実は信玄の死に先立つ約3ヶ月前の1573(元亀4)年には足利義昭自らが、南近江に残っていた六角氏と一向宗門徒の勢力を結集して挙兵をしていました。

しかしこの挙兵は失敗。さらに同年5月にも槙島城でも再度挙兵をしますが、またもや失敗し、義昭は織田信長によって京からの追放処分に処されてしまいます(「槙島城の戦い」)。

こうして「反信長包囲網」から比叡山延暦寺・足利義昭・武田信玄が脱落し、織田信長は朝倉・浅井攻めを集中して行うことができるようになったのです。

朝倉義景の逃亡と最期|一乗谷の崩壊から滅亡へ

小谷城から一乗谷への撤退

1573(天正元)年8月8日、横山城の城将・羽柴秀吉が小谷城を守る最後の支城となった山本山城の阿閉貞征(あつじさだゆき)を降伏させることに成功。

その知らせを聞いた織田信長は3万の大軍を率い近江北部に向けて出陣し、虎御前山に本陣を構えます。

小谷城が孤立無援であることを知った朝倉義景は軍勢を率いて、小谷城に籠る浅井勢を救援しようとしますが、城下にはすでに織田の大軍がひしめいており、付け入るスキがありません。

8月13日、義景は木之本(現在の滋賀県長浜市)まで退いて信長に決戦を挑みますが敵わず、敗走の際には逆に3,000余もの味方の首を討ち取られて一乗谷に撤退するというひどい有り様でした(「刀根坂の戦い」)。

朝倉景鏡の裏切りと孤立

8月15日に一乗谷に逃げ帰った朝倉義景でしたが、朝倉勢の敗戦は越前の国中に知れ渡っており、もはや国内からは義景に味方しようと名乗り出る武将たちは現れません。

そこで、義景の従弟にあたる朝倉景鏡(かげあき)が、一乗谷城を出て大野郡へ移って再起を図るよう進言。しかしこの景鏡が義景を裏切り、義景の仮の宿所を200の兵で包囲し、主君を追い込みます。

最期の状況(自害)

景鏡によって宿舎を攻め込まれた義景の近臣たちは、攻めかかってくる手勢に対して奮戦をしたと言われていますが、義景自らは自害。

義景の首は景鏡によって信長のもとに持ち込まれたと言われています。

朝倉義景の死後どうなる?朝倉家のその後

朝倉家滅亡の影響

朝倉義景の自害によって越前朝倉家は滅亡しますが、その後の越前国は支配者がコロコロと変わっていきました。

信長は「刀根坂の戦い」以前に降伏していた元・朝倉家家臣の前波吉継を越前の守護代を任せますが、同じく朝倉の旧臣であった富田長繁に国を乗っ取られます。

その富田長繁の支配も長くは続かず、今度加賀の一向宗徒とその指導者である七里頼周(しちりよりちか)に乗っ取られ、越前は「一揆持ちの国」となり混乱を極めたようです。

越前の支配構造の変化

こうした越前国の混乱状態を収めたのが、織田信長とその重臣である柴田勝家でした。

1575(天正3)年9月、織田信長は自ら軍勢を率いて越前の一揆勢を殲滅すると、その後の支配のために柴田勝家を配置。勝家は越前国の全域である8郡49万石の統治を任されることに。

なお、北庄城を本拠地とする柴田勝家は、1576(天正4)年、その配下に前田利家・佐々成政・不破光治を与力の武将として付けられ、加賀の一向宗や越後の上杉謙信に対峙する「北陸方面司令官」に任命されました。

朝倉義景の史実とドラマの違い

無能とされる理由

NHKの大河ドラマでは、「豊臣兄弟!」以外の作品でも、朝倉義景は登場してきました。ほとんどの作品では朝倉義景のことを「織田信長の前に敗退する無能な武将」として描かれています。

では朝倉義景は本当に無能だったのでしょうか?

残念ながら「朝倉義景が無能であった」ことは、ある程度事実でしょう。すでに述べたように朝倉義景の自害と朝倉家の滅亡は「戦略的判断の遅さ」に起因していると考えられます。

今回の記事を読むと、朝倉義景には少なくとも3つのミスがあったことがわかるでしょう。

1. 足利義昭に逃げられる

そもそも朝倉義景は足利義昭を庇護していながらも上洛することなく、1568(永禄11)年9月に織田信長に逃げられてしまっています。

信長は義昭を奉じて京に上洛したのち、その権威を借りて「天下布武」を唱えました。おそらく義景には「義昭の利用価値」が分からなかったのでしょう。

2. 武田信玄の西上に合わせて挙兵しなかった

1572(元亀3)年12月、武田信玄が三方ヶ原の戦いで徳川家康に大勝。信玄はなおも軍を西に向けて進軍しているにも関わらず、義景は共同戦線を張って信長と対抗しようとしませんでした。

信長を追い詰めるチャンスをみすみす逃しています。

3. 小谷城攻めの織田信長に機先を取られる

1573(天正元)年8月、信長は3万の大軍を率いて孤立無援となった小谷城を取り囲みます。

もし朝倉義景が機先を制して信長よりも先に出陣していれば、城に籠る浅井長政と連携して織田勢を城下から排除できたかもしません。

実際の評価と再検討

こうした朝倉義景の行動力や決断力のなさは、同じ時代に生きた武田信玄も嘆いたそうです。

豊臣秀吉の研究で知られえる國學院大学の故・桑田忠親名誉教授はその著作「豊臣秀吉研究 上」の中で、武田信玄は朝倉義景のことをこのように評価したと指摘されています。

武田信玄の西上は、浅井・朝倉二氏ならびに本願寺門徒を敵とする信長にとって、甚だしい恐慌であり、十二月、家康の防戦を援けて、大いに信玄と遠州三方が原に戦ったが、遂に家康信長方の惨敗に帰した。信玄は、この戦勝を好機として、南北より信長を挟撃せんとして、その策を浅井・朝倉に洩らすところがあったが、すべてに果断さを欠く朝倉義景は、動こうとしなかった。信玄も大いにこれをなじったが、結局、彼らにとっての好機は去り、随って、信長にとっての危機は、またもや、その姿を消し、翌天正元(元亀四)年四月十二日、信玄は三河の野田の陣中で発病し、甲府に帰る途中、信州の駒場で死去した。
桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402) 188ページ

こうした朝倉義景について回る「マイナスイメージ」を払拭するためには、別の角度による斬新な研究が必要となるでしょう。

豊臣兄弟!での描かれ方(予想・考察)

反信長包囲網の中心として登場

「豊臣兄弟!」の第14話「絶体絶命」では朝倉義景(鶴見辰吾)の城の1つである、金ヶ崎城を取り囲んだ織田信長(小栗旬)が後方で義弟の浅井長政(中島歩)が朝倉方に寝返ったことを知り、命からがら京に逃げ戻るシーンが描かれるでしょう。

この信長の敗戦は史実であり、のちに「金ヶ崎の退き口」と呼ばれることになりますが、朝倉義景と浅井長政の共闘が「反信長包囲網」に加わった最初の合戦であったとも言えます。

浅井長政との連動

史実では「金ヶ崎の退き口」以降、朝倉義景と浅井長政の共闘による、織田信長に対する反抗は3年以上に及びました。

第15話「姉川大合戦」では「姉川の戦い」が描かれ、第16話「覚悟の比叡山」では宇佐山城の織田信治を討ち取った朝倉と浅井の兵が共に比叡山に逃げ込むというシーンが描かれるでしょう。

滅亡シーンの描写

しかしこうした朝倉義景と浅井長政の共闘も第17話「小谷落城」では終焉を迎えることになります。

武田信玄は病死、足利義昭も槙島城で捕えられ、信長の狙いは朝倉義景と浅井長政に集中。小谷城救援に向かったはずの朝倉義景は退路の1つとなる砦を落とされたことを知り、逆に退却。

背後から信長勢に襲われることとなった義景は、劣勢を逆転することなく、一乗谷まで撤退。従弟の朝倉景鏡に命じて一乗谷全体を火を放つように命じるのでした。

豊臣兄弟! 朝倉義景はどうなる 関連記事と参考文献

豊臣兄弟! 朝倉義景はどうなる 関連記事

朝倉家と長年にわたって同盟関係を結んだ浅井長政は、朝倉義景が自害した時期とほぼ同時期に自害し、滅亡に追い込まれています。

その自害・滅亡に至る流れを浅井長政の視点で説明した記事は以下の記事が参考になるでしょう。

また朝倉家が滅亡したのちに越前国を支配した、織田信長の重臣・柴田勝家も「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に敗北したこと、自害とお家の滅亡に追い込まれました。

その柴田勝家が自害・滅亡に追い込まれた理由などについては、下記の記事が参考になります。

豊臣兄弟! 朝倉義景はどうなる 参考文献

今回の記事は下記の6冊の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。

NHK出版
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著:KADOKAWA
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著:桑田 忠親
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