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副田甚兵衛(副田吉成) あさひの夫 豊臣秀長の与力

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目次

副田甚兵衛の名前について

副田甚兵衛とは

副田甚兵衛(そえだじんひょうえ)(生没年不詳)とは、豊臣秀吉・秀長の妹であったあさひ(朝日姫)の最初の夫で、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長仲野太賀)の与力の1人だった人物です。

副田甚兵衛は1582(天正10)年に但馬国から播磨国に移動する際、それまで守備していた但馬国の多伊城を一揆勢に奪われたことについて羽柴秀吉から責任を問われて、あさひとの離縁を命じられることになります。

副田甚兵衛の名前について

羽柴秀吉とその一族」によると、副田甚兵衛の正確な名前は「副田甚兵衛尉(そえだじんひょうえのじょう)」です。よって以下の記述では「副田甚兵衛」ではなく「副田甚兵衛尉」と表します。

一般的に「豊臣秀吉・秀長兄弟の妹・あさひ(朝日姫)の最初の夫」と言われる人物には、「佐治日向守(さじひゅうがのかみ)」と「副田吉成(そえだよしなり)」という人物が紹介されることがあります。

「あさひの最初の夫」とされる男性がそれぞれ名前が違う理由は、それぞれ所伝が異なるからです。

「あさひの最初の夫」の名前と所伝を比較

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名前所伝所伝の編纂時期
副田甚兵衛尉
(そえだじんひょうえのじょう)
武家事紀1673(寛文13/延宝元)年
佐治日向守
(さじひゅうがのかみ)
改正三河後風土記1833(天保4)年
副田吉成
(そえだよしなり)
尾張志1844(天保15/弘化元)年

これら3つの所伝のうち「あさひの最初の夫」を「副田甚兵衛尉」と表している「武家事紀」は江戸時代中期の編纂で、他の2つはそれから150年以上経過した江戸時代後期の編纂です。

このことから「あさひの最初の夫」の名前は「副田甚兵衛尉」が最も信頼できると考えられます。

副田甚兵衛尉の出自と家族

副田甚兵衛尉の出自

副田甚兵衛尉は生没年が不詳であるように、出自は全く分かりません。

副田甚兵衛尉が史料に最初に登場するのは1580(天正8)年。羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の覚書の中で甚兵衛尉が播磨国にあった神吉城の破却を担当していることが述べられています。

副田甚兵衛尉の家族

上述した「武家事紀」に副田甚兵衛尉は秀吉の妹婿であることが記述されており、そのことから唯一確認できる家族が、秀吉・秀長兄弟の妹・あさひとなります。

但馬国を領し、出石に在城、二方郡台の城に副田甚兵衛尉〈秀吉妹婿〉在て秀長の与力たり、

黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (p. 47). (Function). Kindle Edition.

副田甚兵衛尉とあさひの間には子供はいなかったと考えられています。

秀吉の家臣・秀長の与力としての副田甚兵衛尉

羽柴秀吉の家臣・羽柴秀長の与力

1580年代前後における羽柴家の中での副田甚兵衛尉の立場は「秀吉の直臣で秀長の与力(よりき)」というものでした。

現代風にいうと「甚兵衛尉の雇用主は羽柴秀吉であるが、羽柴秀長のもとに出向している」という感覚に似ているでしょう。

秀長が戦を行うときは甚兵衛尉は秀長に加勢して戦闘に参加しますが、秀吉から別命があるときは秀長よりも秀吉の命令を優先するという存在です。

守備をしていた多伊城が奪取される

「武家事紀」によると副田甚兵衛尉は秀長の与力として存在し、秀長が但馬国にあった竹田城を本拠としていた頃(1577~1580年ごろ)に、甚兵衛尉は同国西北部にあって因幡国に近い多伊城に在城していたとされています。

しかし冒頭で述べたようにその多伊城が一揆勢によって奪取。この事件に関して「武家事紀」にはこう書かれています。

公(秀吉)の妹は元副田甚兵衛妻なり、副田但馬国二方郡多伊城に在り、信長逝去の時、副田兵を播州に出し、其のあとにて一揆起こり、多伊城を攻め取る、宮部(継潤)馳せ来たりて取りかえす、これより副田が妻を公奪いて与えず、副田猶勤仕す、

黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (p. 47). (Function). Kindle Edition.

多伊城が奪取された責任を問われてあさひと離婚させられる

多伊城そのものは因幡国に在国していた秀吉家臣の宮部継潤によって再奪取できたようですが、副田甚兵衛尉はこの失態がもとで、あさひとは離縁させられてしまったようです。

通説では「あさひは徳川家康と政略結婚するために最初の夫と別れさせられた」とよく語られます。

しかし「武家事紀」の記述に従うと、あさひが最初に結婚した夫、つまり副田甚兵衛尉と離婚した理由は、徳川家康との政略結婚と関係がなかったことになります。

羽柴秀吉とその一族」では「あさひは徳川家康と政略結婚するために最初の夫と別れさせられた」という話は、「改正三河後風土記」と「尾張志」の所伝としています。

著者の黒田基樹さんは、実際にあさひが副田甚兵衛尉と離婚をした可能性がるある年は、あさひが徳川家康の正室となった1586(天正14)年ごろではなく、1582(天正10)年ごろの方が高いと指摘されています。

あさひと離婚したのちの動向

「武家事紀」以外の所伝によると、副田甚兵衛尉にあたる人物は離婚を命じられたと同時に秀吉から5万石の領地をオファーされたり、そのオファーを断って尾張国烏森に隠棲したという話が伝えられています。

しかし「武家事紀」に「副田猶勤仕す」と記されていたように、あさひと離婚させられたのちも秀吉の家来として仕えていたようです。

羽柴秀吉とその一族」では、1582年10月には織田信長の葬儀のために杉原家次・桑原貞也とともに法事奉行を務め、さらに1583(天正11)年の賤が岳の合戦ののちには敵将・柴田権六と佐久間盛政の護送を行なったとあります。

副田甚兵衛尉 関連記事と参考文献

副田甚兵衛尉 関連記事

豊臣秀吉・秀長兄弟の妹・あさひ(倉沢杏菜)の夫としての副田甚兵衛尉に関しては以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

副田甚兵衛尉 参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。著者の黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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