浅野長勝の名前について
浅野長勝とは
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で宮川一朗太さんが演じる浅野長勝(あさのながかつ)とは、豊臣秀吉の正室(正妻)である寧々(浜辺美波)の養父です。
長勝とその妻・七曲殿(「豊臣兄弟!」のふくにあたる女性)の間には実子がなかったため、杉原道松(すぎはらどうしょう)・朝日殿夫妻から寧々を養女として引き取り、1565(永禄8)年8月に木下藤吉郎秀吉(のちの豊臣秀吉)に嫁がせています。
浅野長勝の名前について
浅野長勝の「長勝」の部分は実名で、通称は「又右衛門(またえもん)」であったと言われています。
浅野長勝の出自と家族
浅野長勝の出自
浅野長勝は尾張国の人で、浅野長詮の子であると言われています。
浅野長勝の家族
浅野長勝には妻・七曲殿がいましたが実子はいませんでした。そのため寧々のほかにも、寧々の実の妹である屋々(やや)(?~1616年)と浅野長吉(のちの浅野長政)(1547~1611年)を養子にしています。
浅野長勝の動向
信長の馬廻衆の一人
浅野長勝は織田信長の直臣です。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されている黒田基樹さんによると馬廻の弓衆を、豊臣秀吉研究の第一人者である國學院大学名誉教授の故・桑田忠親さんによると弓足軽の足軽組頭をつとめていたとそれぞれ指摘しています。
養女・寧々と木下藤吉郎の結婚
故・桑田忠親名誉教授の著作「豊臣秀吉研究 下」によると、1565(永禄8)年8月に行われた寧々と木下藤吉郎秀吉との結婚はいたって簡素なものであったと指摘されています。
長勝は、信長の足軽組頭をつとめ、尾州清洲城の足軽長屋に、おねと共に住んでいた。そのころ、木下秀吉も、信長の足軽組頭として、同じ長屋の一部屋に起居していたらしいが、入り婿のかたちで、おねと結婚したのである。足軽同士の婚礼だから、祝儀も至って手軽だった。茅葺屋根の裏長屋の一室の土間に簀搔藁を敷き、薄縁をのべ、その上に花婿と花嫁が並らんで坐り、三々九度の盃を交わしている。盃は、かわらけだった。
桑田 忠親. 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (p. 326). (Function). Kindle Edition.
1996(平成8)年に放送されたNHK大河ドラマ「秀吉」の第3回「運命の花嫁」で描かれている寧々と秀吉の結婚はまさにこの通りの描写でした。
結婚式の列席者も前田犬千代(のちの前田利家)・まつ(利家の正室。のちの芳春院)・小一郎(のちの豊臣秀長)の3人だけです。
那古屋因幡守敦順が寧々と木下藤吉郎との結婚を仲介した可能性について
ただ桑田忠親さんは同じ文章で、寧々と秀吉の結婚にはおそらく前田利家か那古野因幡守敦順(なごやいなばのかみあつより)の媒酌があったことも指摘されています。那古野因幡守敦順とは織田家の一族で、織田信長の直臣です。
大河ドラマ「秀吉」では足軽風情の「サル」に求婚されたことを、寧々の養父母である浅野長勝と妻の七曲殿が大層憤慨し、寧々と秀吉の結婚は現代的な「格差婚」のような側面で描かれました。
しかし黒田基樹さんによると、寧々と秀吉の結婚は格差があった恋愛結婚であったかどうかはともかくとして、織田家の有力者たち(那古野因幡守敦順や木下雅楽助)による「保証」があった婚姻であった可能性を指摘されています。
結局のところ、それらの誰が実際に結婚を取り持ち、浅野長勝を説得し、また信長の承認を獲得したのか、ということについては確定できない。ただ両者の人間関係からみると、当初の段階においては、両者をともに知っていた木下雅楽助・養雲院殿きょうだい、そして養雲院殿の夫那古屋因幡守が大きく関わっていたとみられるだろう。
黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (p. 137). (Function). Kindle Edition.
ちなみに黒田基樹さんは、著作の「羽柴秀吉とその一族」において、寧々と木下藤吉郎秀吉との結婚は1561(永禄4)年8月であった可能性についても言及されています。
近江国箕作城攻めの時に戦死
1568(永禄11)年9月、織田信長は室町幕府15代将軍である足利義昭を奉じて、京に上洛。その途上で上洛を阻む近江国の守護大名・六角義賢を攻撃(「観音寺城の戦い」)。
このとき浅野長勝は観音寺城の支城であった箕作城攻めに従軍し、同年9月11日に戦死します。
浅野長勝 関連記事と参考文献
浅野長勝 関連記事
寧々の養父である浅野長勝については以下の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
浅野長勝 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。なおこれらの著作の著者のうち、黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
