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豊臣秀次 年表 誕生から「豊臣秀次切腹事件」に至るまで

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目次

豊臣秀次とその年表について

豊臣秀次とは

豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1564~1595年)とは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で登場する豊臣秀吉池松壮亮)・豊臣秀長仲野太賀)兄弟の甥です。

秀吉から1591(天正19)年12月に関白職と豊臣家の家督を譲られるも、1595(文禄4)年に秀吉の命令によって紀州の高野山において切腹を果たした人物としても知られています。

豊臣秀次の年表

その豊臣秀次の32年の生涯を年表にすると以下の通りとなります。

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西暦(和暦)年齢(数え)出来事
1564(永禄7)年1才父・三好吉房と母・瑞竜院日秀尼の長男として尾張国で誕生
1571(元亀2)年ごろ8才浅井長政の家臣・宮部継潤の養子に出される
1582(天正10)年6月から10月ごろ19才宮部家との養子縁組を解消。阿波国の大名・三好康長の養子に出される
1582(天正10)年11月19才本拠地を尼崎城とする
1583(天正11)年ごろ20才池田恒興の娘・若政所と結婚
1584(天正12)年3月から6月ごろ21才三好家との養子縁組を解消。「羽柴秀次」を名乗る
1584(天正12)年3月から4月ごろ21才小牧・長久手の戦いに従軍
1585(天正13)年3月22才秀吉の副将として紀州征伐に従軍
1585(天正13)年6月22才四国征伐に従軍
1585(天正13)年閏8月22日22才叔父・豊臣秀吉より近江国八幡山43万石を与えられる
1585(天正13)年10月6日22才左近衛権少将に任官
1586年(天正14)年ごろ23才右近衛権中将に任官
1586年(天正14)年11月7日23才参議に任官
1587年(天正15)年9月17日から11月15日まで24才権中納言に任官
1590年(天正18)年3月27才小田原征伐に従軍
1590年(天正18)年6月27才奥州仕置
1590年(天正18)年7月27才近江八幡山から尾張国57万石に加増転封
1591年(天正19)年11月28日28才権大納言に任官
1591年(天正19)年12月4日28才内大臣に任官
1591年(天正19)年12月28日28才関白に任官。豊臣家の氏長者として羽柴家の当主に
1592(文禄元)年1月29才左大臣に任官
1593(文禄2)年9月8日30才お拾(のちの豊臣秀頼)が誕生
1595(文禄4)年7月3日32才前田玄以・富田知信・増田長盛・石田三成によって叛意について詰問される
1595(文禄4)年7月3日32才高野山での謹慎を命じられる
1595(文禄4)年7月3日32才検使役・福島正則の立ち合いのもと切腹(「豊臣秀次切腹事件」)

豊臣秀次 年表の補足説明

豊臣秀次が誕生した年について

インターネット上でGoogle検索などを使って豊臣秀次について調べていると、その誕生年は「1568(永禄11)年」とする記事をよく見かけます。

しかし大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんの著作「羽柴秀吉とその一族」は、秀次の誕生年には諸説があり、主に「1564(永禄7)年」・「1565(永禄8)年」・「1567(永禄10)年」・「1568(永禄11)年」の4つの説があることを指摘しています。

羽柴秀吉とその一族」の169ページから171ページにかけて、諸説の依拠するところを詳しく解説し、著者の黒田基樹さんは、秀次の誕生年として可能性が高い説は「1564(永禄7)年説」あるい「1565(永禄8)年説」と説明されています。

したがって生年についての所伝は四説あるものの、実態としては、大きく永禄七年か八年説と、同十年か同十一年説の二説に区分することができるだろう。そうすると永禄十一年説が成立しないとすれば、それと同種の同十年説も成立しないと見なすことができ、生年については永禄七年か同八年のいずれの可能性が高いと見ることができよう。しかしこれ以上の追究は不可能であり、いずれに確定できるのかは、引き続いて今後における検討課題として残さざるをえない。

黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) 171ページ

なお上述している年表は豊臣秀次が1564(永禄7)年に生まれたと仮定して作成しています。

豊臣秀次の名前の変遷

諸説によると豊臣秀次の幼名は、万丸(よろずまる)・治兵衛(じへえ)・次兵衛(じへえ)という言われることがあるようです。しかし「豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇」によると確かな根拠はないと説明しています。

また豊臣秀次は、「羽柴」という苗字を名乗る前に、宮部継潤・三好康長に養子へ出されていたこともあって時期によって名前が異なります。

以下の表は「羽柴秀吉とその一族」の記述に基づき、豊臣秀次が時期によってどんな名前を名乗っていたのかを年表形式にしたものです。

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西暦(和暦)年齢(数え)名前
1564(永禄7)年0才不明
1581(天正9)年5月21日17才宮部次兵衛尉吉継
(みやべじひょうえのじょうよしつぐ)
1582(天正10)年10月22日18才三好孫七郎信吉
(みよしまごしちろうのぶよし)
1584(天正12)年3月から6月ごろ21才羽柴秀次
(はしばひでつぐ)
1585(天正13)年10月6日22才羽柴近江少将
(はしばおうみしょうしょう)
1586(天正14)年ごろ23才羽柴近江中将
(はしばおうみちゅうじょう)
1586年(天正14)年11月7日23才羽柴近江宰相
(はしばおうみさいしょう)
1587年(天正15)年9月17日から11月15日まで24才羽柴近江中納言
(はしばおうみちゅうなごん)
1590年(天正18)年7月27才羽柴尾張中納言
(はしばおわりちゅうなごん)

「豊臣秀次」も「羽柴秀次」もどちらも正しい名前

豊臣秀次は一般的には「豊臣秀次」と呼称されますが、「羽柴秀次」と呼称をしても間違いではありません。

理由は「豊臣」は朝廷の臣下であることを証する「氏姓」であり、「羽柴」は苗字を表し、それぞれ別種の名前であるからです。

明治時代以降の日本では「氏姓」も「苗字」も同じ「セカンドネーム」として扱われていますが、江戸時代以前の日本では「氏姓」は朝廷から賜る名前、一方「苗字」は地名に基づく名前として両者の性格は明確に分けられていました。

豊臣秀次 年表 関連記事と参考文献

豊臣秀次 年表 関連記事

豊臣秀次の父は三好吉房で母は瑞竜院日秀尼という人物でした。秀次の父母に関する記事を読むと、豊臣秀次はどういう出自の人物であったかより理解できるでしょう。

豊臣秀次 年表 参考文献

今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。

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