寧々(ねね)とは
「豊臣兄弟!」の寧々(ねね)とは
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟」で浜辺美波さんが演じる寧々(ねね)とは、のちに豊臣秀吉と言われる藤吉郎(池松壮亮)の正室(正妻)で、のちに北政所(きたのまんどころ)という敬称や、高台院(こうだいいん)という院号で呼ばれる女性です。
寧々は1615(慶長20/元和元)年に大坂夏の陣で豊臣家が滅亡したのちも長生きし、秀吉をはじめとした一族の菩提を弔い続けました。
「豊臣兄弟!」の寧々の役柄
豊臣秀吉の正妻。秀吉が関白に就任したのちは北政所(きたのまんどころ)と称される。
負けず嫌いの性格で、夫の秀吉とともに出世街道を駆け抜ける。
やがて庶民の娘から“戦国のファーストレディ”へと昇りつめる。
実在した寧々の出自
寧々は1549(天文18)年に杉原道松・朝日殿夫妻の娘として尾張国清須朝日村で誕生。藤吉郎と呼ばれていた豊臣秀吉と結婚するまでの間には浅野長勝・七曲殿夫妻の養女となっていました。
寧々と木下藤吉郎秀吉の結婚
寧々と木下藤吉郎は1565(永禄8)年8月に結婚したと考えられています。
1996(平成8)年に放送されたNHK大河ドラマ「秀吉」の第3回「運命の花嫁」では、竹中直人さん演じる藤吉郎が身分の垣根を超えて、沢口靖子さん演じるおね(「豊臣兄弟!」の寧々に当たる女性)に求婚する場面が描かれています。
しかし「豊臣兄弟!」で時代考証をされている黒田基樹さんによると、寧々と木下藤吉郎秀吉が結婚した理由について、著作の「羽柴秀吉とその一族」の中で以下の2点を挙げています。
- 寧々と藤吉郎は、藤吉郎の母・天瑞院殿(「豊臣兄弟!」のなかにあたる女性)を通して遠縁の親戚関係にあった
- 寧々の筆習いの師匠は養雲院殿という女性で、その夫・那古野因幡守敦順(なごやいなばのかみあつより)という織田家の一族が寧々の養父・浅野長勝に藤吉郎を推挙していた
寧々と藤吉郎は結婚する前からそれなりの知り合いで、結婚に際しては織田信長の裁可を得た可能性があると、黒田基樹さんは指摘されています。
寧々の性格を表すエピソード 3選
1. 温順で実直な糟糠の妻
豊臣秀吉研究の第一人者として知られる國學院大学 故・桑田忠親名誉教授の著作「豊臣秀吉研究 下」によると、寧々の性格として最も最初に挙げていることは「温順で実直な糟糠の妻」であったことです。
「糟糠の妻」とは貧しい頃から苦労をともにし、夫を支えた妻のことを指しますが、藤吉郎がのちに関白にまで出世し、天下統一を果たした史実からすると、全くその通りでしょう。
また「温順で実直な」というのは、鎌倉幕府を開いた源頼朝の妻・北条政子と比較して、寧々は穏やかな性格であったとされています。
2. 男勝りで内助の功があった
しかし桑田忠親名誉教授は、寧々が単に「温順で実直」な女性だったとは説明されていません。日本史上で最高の出世を遂げた人物の妻らしく、寧々には「男勝りで内助の功」 があったとしています。
その例が1574(天正2)年に秀吉が近江国の長浜(現在の滋賀県長浜市)で12万石の大名となったとき、寧々の侍女である「こう」という女性を通じ、寧々に長浜の町政について伝えたときのことです。
まちのねんぐ申つけ候につゐて、文くわしくはいけん申まいらせ候。 一 まち人の事、われ〳〵ふびんがり候て、よろづようしやせしめ候ところに、ずいになり申候て、さい〳〵の百しやうを、まちへよびこし申候事、くせ事にて御入候事。 一 よそのりやうちのもの、よびかへし候事は、もつともに候へども、きたのこおりのうち、われ〳〵りやうぶんのもの、よびこし候て、しよやくつかまつり候はぬを、よく候とて、ざい〳〵をば、あげて、ゑん〳〵に、よびこし申候事、しよせん、まち人に、ねんぐ、しよやく、ゆるし候ゆへにて候まゝ、たゝいま申つけ候事。
桑田 忠親. 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (p. 327). (Function). Kindle Edition.
【現代語訳】
町の年貢を申し付けた件について、文書を詳しく拝見した。
一、町人のことであるが、われわれが不憫に思ってあれこれと世話をしてやったところ、かえって町人たちが増長してしまい、最近では百姓を町に呼び込むことが常習となり、そのために御処罰を受ける事態となっている。
一、よその領地の者を町に呼び寄せることは、もとよりあってはならぬことである。
しかしながら、同じ北の郡(きたのこおり)のうちで、われわれの領分に属する者を呼び入れたとしても、彼らを諸役(年貢・公役)につかせぬまま「よいことだ」として、財産を与え、縁故のように町に呼び寄せていることは、結局のところ町人に年貢や諸役を免除しているのと同じことである。
このため、ただいまその点について申し付けるものである。
手紙の背景
長浜の領主となった秀吉が町の諸役や年貢を免除したところ、そのことを聞きつけた近隣の百姓たちがこぞって長浜に押しかけてきました。秀吉は「けしからんこと」として町政を引き締めようとしたところ、人々は寧々に直訴して移住を認めてもらおうとします。
そこで寧々は秀吉に対して「百姓を締め付けないでほしい」と陳情の手紙を送ったところ、秀吉は寧々の願いを容れて領主としての心遣いを住民たちによく伝えてほしいと言っているのです。
桑田名誉教授は、当時27才であった寧々は、12万石の大名の奥方として内政に関与することを認められていたと評価されています。
3. 嫉妬深く織田信長に夫婦仲を仲裁される
寧々に関する書状については、織田信長が寧々に宛てた手紙も残されています。
おほせのごとく、こんどは、このちへはじめてこし、けさんにいり、しうちやくに候。ことに、みやげ色々、うつくしさ、中々めにもあまり、ふでにもつくしがたく候。しうぎばかりに、このはうよりも、なにやらんと思ひ候へば、そのはうより見事なる物もたせ候あひだ、べちに心ざしなく候まゝ、まづ〳〵このたびは、とゞめまいらせ候。かさねてまいるのとき、それにしたがふべく候。なかんづく、それのみめぶり、かたちまで、いつぞやみまいらせ候折ふしよりは、十の物、廿ほども、みあげ候。藤きちらう、れん〳〵ふそくのむね、申のよし、ごんごだうだん、くせ事に候。いづかたをあひたづね候とも、それさまほどのは、又、二たび、かのはげねずみ、あいもとめがたきあいだ、これよりいごは、みもちをようくわいになし、いかにも、かみさまなりに、おも〳〵しく、りんきなどにたち入候ては、しかるべからず候。ただし、をんなのやくにて候あひだ、申ものゝ申さぬなりに、もてなし、しかるべく候。なを、ぶんていに、はしばに、はいけんこひねがふものなり。
のぶ(朱印)
藤きちらうをんなども
桑田 忠親. 豊臣秀吉研究 下 角川選書クラシックス (pp. 329-330). (Function). Kindle Edition.
【現代語訳】
仰せのとおり、このたびはじめてこの地へ参り、ようやく滞在いたしております。
おみやげの品々、その美しさはまことに目にも余るほどで、筆にも尽くしがたいほどでした。
こちらからも、せめて祝儀の代わりに何か差し上げようかと思いましたが、
そちらから見事な品をいただきましたので、特に改めて贈り物をするのもどうかと思い、
今回はまずこのままご挨拶だけ申し上げます。
次に参上する折には、それにふさわしいお礼をいたしたく存じます。
とりわけ、そちらのご容貌やお姿は、
先ごろお目にかかった折よりも十倍、二十倍もご立派に見受けられました。
藤吉郎(=豊臣秀吉)にも、度々お便りが届かない旨、申し伝えましたが、
そのことはまことに遺憾なことでございます。
どちらにお尋ね申し上げても、あの「禿ねずみ」(=藤吉郎のことを戯れに呼んでいる)が
容易に見つからぬため、これからはお体を大切にされ、
何事も神仏のように慎重にお考えの上で行動なさるのがよろしいでしょう。
ただし、女性としてのお役目ですので、
言葉に出さずとも、それなりに心を込めておもてなしなさるのがよいかと存じます。
なお、文亭(=書斎)において、羽柴(=藤吉郎=秀吉)にお目にかかりたいと願っております。
織田信長(朱印)
藤吉郎の奥様
手紙の背景
この手紙は1576(天正4)年から1577(天正5)年ごろに織田信長が寧々に宛てて出されたと考えられています。
信長は寧々が安土城に持参した調度品の礼を述べる一方で、寧々もこれまでよりも綺麗になっているのだから秀吉の浮気を軽々しく嫉妬してはならないと戒めを説いています。
現代でも豊臣秀吉は「女好きだった」と認識されていますが、その一方で織田信長は女としての寧々の嫉妬深さを感じ、秀吉・寧々の夫婦仲を仲裁する存在でもあったと考えられます。
寧々(ねね) 性格の関連記事と参考文献
寧々(ねね) 性格の関連記事
大河ドラマ「豊臣兄弟!」で浜辺美波さんが演じる寧々という女性については、下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
寧々(ねね) 性格 参考文献
今回の記事は以下の2冊の書籍を参考文献としています。
