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寧々(ねね) 子供 豊臣秀吉との子供 養子の秀勝・ごう・小姫・秀俊

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秀吉と寧々の子供について

秀吉と寧々(ねね)の間に実子はいなかった

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で池松壮亮さん演じる藤吉郎(のちの豊臣秀吉)と浜辺美波さんが演じる寧々(ねね)との間には実子はいません。

秀吉と寧々との間に実子がいなかった理由を、豊臣秀吉研究の第一人者で知られる國學院大学 故・桑田忠親名誉教授の著作「豊臣秀吉研究 下」や、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんが編著されている「羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究)」に求めてみましたが、いずれもその答えを見つけることができませんでした。

大河ドラマ「秀吉」のおねは死産のため子供を産めない体に

ちなみに1996(平成8)年に放送されたNHK大河ドラマ「秀吉」の第7回「妻の秘密」では、沢口靖子さん演じるおね(「豊臣兄弟!」の寧々に当たる女性)は、竹中直人さん演じる藤吉郎の子を身籠る場面が描かれます。

しかしこのときおねは妊娠した子供を死産してしまい、二度と出産はできないと医師から宣告されます。

秀吉と寧々の間には4人の養子がいた 秀勝・ごう・小姫・秀俊

実際の豊臣秀吉と寧々(のちの北政所)の間に実子は存在しませんでしたが、秀吉・寧々と養子縁組をした4人の子供たちがいます。「羽柴秀吉とその一族」の記述によると、その養子たちとは以下のとおりです。

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名前生年と死没年説明
羽柴秀勝
(はしばひでかつ)
1567~1585年もとは織田信長の五男・於次丸(おつぎまる)。1580年ごろには養子になっていたと考えられる
ごう
(ごう)
1574~1634年もとは前田利家の娘。1579年までには養子になっていたと考えられる
小姫
(おひめ)
1586?~1591年もとは織田信雄の娘。1587~1588年ごろに養子になっていたと考えられる
羽柴秀俊
(ひでとし)
1582~1602年もとは寧々の兄・木下家定の五男。1584年に養子になる。のちの小早川秀秋

加藤清正・福島正則・黒田長政は秀吉・寧々夫妻の養子ではない

過去のNHK大河ドラマを見ていると、「秀吉子飼いの武将」と言われる加藤清正や福島正則も、秀吉・寧々夫妻の養子のように見えることもあるかもしれません。

しかし、加藤清正は豊臣秀吉の母・天瑞院殿(大政所)「豊臣兄弟!」のなかに当たる女性)の親戚、福島正則は父方・妙雲院殿栄本の親戚ではあっても、秀吉・寧々夫妻の養子ではありません。

加藤清正や福島正則は、秀吉と遠縁の親戚関係であったことから寧々によって「我が子同然」に養育されたかもしれませんが、実際に養子縁組をした秀勝・ごう・小姫・秀俊たちとは違って「我が子」ではなかったのです。

同じことは織田信長への人質として秀吉の元に預けられていた、子飼いの武将・黒田長政(当時は松寿丸)にも当てはまり、加藤清正や福島正則と同様に長政は秀吉・寧々夫妻の養子ではありません。

豊臣秀次は秀吉・寧々夫妻の養子だったのか?

1591(天正19)年12月28日に豊臣秀次が関白に任官

豊臣秀長が1591(天正19)年1月21日に病死したのち、同年8月には秀吉と側室・淀君の間にできた鶴松も死去。

当時すでに秀吉・北政所夫妻の間には養子となっていた秀俊(のちの小早川秀秋)がいましたが、秀俊の年齢はわずか9才。

そのため豊臣一門で豊臣秀長仲野太賀)に次ぐ地位にあった豊臣秀次が、豊臣家の家督を継ぐことに。

秀次は同年11月28日に朝廷から、当時の徳川家康と同じ官職である権大納言に叙任されると、12月4日には内大臣に昇進。12月28日には関白に任官し豊臣家の氏長者(うじのちょうじゃ)となります。

「家督を継ぐ」ことは「養子になる」と同義ではない

豊臣秀次が豊臣秀吉から豊臣家(羽柴家)の家督を継ぐことは、秀次が秀吉・寧々夫妻の養子になることと同義と考えられがちです。

しかし、2002年に出版された「豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)」には、豊臣秀次が豊臣秀吉の養子となったかどうかについて以下の記述があります。

なお、諏訪勝則氏は、前掲論文「豊臣政権と三好康長─信孝・秀次の養子入りをめぐって─」で、このときの信吉から秀次への改名について、「秀吉に次ぐということから“秀次”になったと思われる」とし、秀次が一躍秀吉の後継者候補におどり出たという解釈をしている。しかし、それはどうだろうか。
 この点については、藤田恒春氏が、「秀次という名前から後継者に補されたとするのは少し早計のきらいがあり、この時点で養子として迎えたという確証は今のところないのである」(「秀吉政権下における豊臣秀次」『新しい歴史学のために』二三六号)と批判しており、私も同感である。

小和田 哲男. 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) (p. 116). (Function). Kindle Edition.

2002(平成14)年の時点で、著者の小和田哲男さんは「豊臣秀次が秀吉・寧々夫妻の養子となったかどうか確証を得られない」としています。

豊臣秀次は秀吉・寧々夫妻と養子縁組をせず豊臣家の家督を継承した

さらに2025(令和7)年に出版された「羽柴秀吉とその一族」でも、やはり秀次が秀吉・寧々夫妻の養子となったかどうか、その形跡は見られないと説明しています。

しかし現在のところ、秀吉が秀次と養子縁組したことを示す明証は確認されていない。養子縁組した場合、秀次は秀吉正妻の寧々とも養子縁組したと考えられるが、その形跡もみられていない。むしろ秀次の関白任官後、実父の三好常閑と実母の瑞竜院殿は、「三位法印様・大かみ様」として、秀次の父母として処遇されており(「駒井日記」文禄二年閏九月六日条〈刊本二頁〉など)、対して秀吉の家族については、「太閤様」「北政所様」「御ひろひ様」「同御袋様」などと記していて(「駒井日記」刊本九〇頁)、同一家の扱いにはないととらえられる。このことからしかし現在のところ、秀吉が秀次と養子縁組したことを示す明証は確認されていない。養子縁組した場合、秀次は秀吉正妻の寧々とも養子縁組したと考えられるが、その形跡もみられていない。むしろ秀次の関白任官後、実父の三好常閑と実母の瑞竜院殿は、「三位法印様・大かみ様」として、秀次の父母として処遇されており(「駒井日記」文禄二年閏九月六日条〈刊本二頁〉など)、対して秀吉の家族については、「太閤様」「北政所様」「御ひろひ様」「同御袋様」などと記していて(「駒井日記」刊本九〇頁)、同一家の扱いにはないととらえられる。

黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書) (p. 181). (Function). Kindle Edition.

著者である黒田基樹さんの説明を読むと、秀次の関白任官に伴って「豊臣宗家」は秀吉の家系から、秀吉の姉にあたる瑞竜院殿(「豊臣兄弟!」のともにあたる女性)・秀次親子の家系に「移動した」感じさえします。

以上を踏まえると豊臣秀吉・寧々夫妻の間には実子はなく、秀勝・ごう・小姫・秀俊の4人だけが養子だったというのが史実であったと言えるでしょう。

寧々(ねね) 子供 関連記事と参考文献

寧々(ねね) 子供 関連記事

「豊臣兄弟!」の寧々(ねね)については下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

寧々(ねね) 子供 参考文献

今回の記事は下記の4冊の書籍を参考文献としています。なおこれらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。

著:桑田 忠親
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戎光祥出版
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著:黒田 基樹
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著:小和田 哲男
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