三好吉房の名前について
三好吉房とは
三好吉房(みよしよしふさ)(1534~1612年)とは、瑞竜院殿日秀尼(大河ドラマ「豊臣兄弟!」で宮澤エマさんが演じる「とも」にあたる女性)の夫で、関白・豊臣秀次の父となる人物です。
豊臣秀次が尾張国を領国としていたとき、尾張犬山城主としてその領域支配を任されていたことが知られています。
三好吉房の名前
三好吉房には様々な名前が伝わっています。インターネット上では、豊臣秀次の父にあたる人物を「三好吉房」としていますが、本人が在世中にこの名前を名乗っていたかどうかは不明です。
「三好吉房」と言う現代の日本人でも覚えやすそうな名前は、苗字の部分は秀次が一時的に養子になっていた三好家から、さらに実名の部分は豊臣秀吉の偏諱である「吉」の一字を組み合わせて出来た名前であると考えられます。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証をされている黒田基樹さんは、通説として「三好吉房」という名前が伝わっていることは認めつつ、豊臣秀次の父にあたる人物を呼ぶときは「三好常閑(みよしじょうかん)」と呼称しています。
なお黒田基樹さんの著作である「羽柴秀吉とその一族」では、三好常閑が他に名乗っていた可能性が高い名前を5つ列挙されています。
1. 弥助(やすけ)
「弥助(やすけ)」と言う名前は「祖父物語」に記述されている名前です。
尾張国海東郡乙之子村(現在の愛知県あま市乙之子)で鷹匠の配下で働く綱差(つなさし)、もしくは馬貸し業を営んでいた時に名乗っていた通称であると考えられています。
2. 三吉武蔵(みよしむさし)・三吉武蔵守(みよしむさしのかみ)
「三吉武蔵(みよしむさし)」あるいは「三吉武蔵守(みよしむさしのかみ)」とは「川角太閤記」に記述されている名前です。
「三吉」と言う苗字は、豊臣秀次が1582(天正10)年ごろに三好康長の養子になったことから名乗った苗字と考えられ、それ以前の苗字は何であったのかは不明です。
なお秀次は1584(天正14)年ごろには、三好家の養子をやめて羽柴家の人間に戻ります。その際、秀次の父は何の苗字を名乗っていたかも分かっていません
3. 武入常閑(ぶにゅうじょうかん)
「武入常閑(ぶにゅうじょうかん)」とは、1590(天正18)年に秀次が近江八幡山から尾張一国に移封されたことにともない、秀次の父も尾張国の犬山城で領域支配を開始したことを伝える書状に署名されている名前です。
「武入」とは「武蔵守入道」のことで、「常閑」は法名であることから、このときすでに出家をしていたと推定されます。
4. 三位法印(さんみほういん)
1592(文禄元)年10月には「三位法印」と言う名前を名乗っていました。このときまでには朝廷から三位の位階と法印号を与えられていたことが考えられます。
5. 建性(松)院(けんしょういん)
「駒井日記」の記録から1595(文禄4)年4月2日以降は朝廷より授けられた「建性(松)院(けんしょういん)」という院号を名乗っていたことが知られています。
三好吉房の出自と家族
三好吉房の出自
三好吉房の出自は不明です。
上述したように、弥助という名前を名乗っていた頃、尾張国海東郡乙之子村(現在の愛知県あま市乙之子)で鷹匠の配下で働く綱差(つなさし)、もしくは馬貸し業を営んでいた可能性が高いとされています。
三好吉房の家族
三好吉房の妻は、豊臣秀吉・秀長兄弟の姉にあたる、瑞竜院殿日秀尼(「豊臣兄弟!のともにあたる女性」)です。夫婦の間には、豊臣秀次(次兵衛)・豊臣秀勝(小吉)・豊臣秀保(鍋丸)の3人の男の子がいました。
ただし三男・秀保は誕生年が1579(天正7)年であり、瑞竜院殿が46才のときの子供であることから、豊臣秀保については夫婦の実子ではなく養子であると考えられています。
三好吉房の動向
尾張犬山城主として10万石を支配
三好吉房には上記で挙げた名前以外にも「長尾」や「三輪」の苗字を名乗っていたり、「羽柴武蔵守一路」というフルネームを名乗っていたのではないかと指摘されることもありますが、実際に何をしていた人なのかはあまり伝わっていません。
唯一と言える事績は長男・豊臣秀次が1591(天正19)年以降に尾張国を治めるにあたって、三好吉房は尾張犬山城主として領域支配を行なっていた事実だけです。
ただ「豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇」によると、三好吉房による尾張犬山の領域支配は危なっかしいものだったと記されています。
ところが、その肝心の三好吉房が、秀次の目からみても頼りにならなかったのである。前述の播磨良紀氏によってはじめて紹介された天正二十年(一五九二)六月十日付秀次朱印状(「竹中輝男氏所蔵文書」)の第二条目に、 一、法印年寄付て、万おろかなる事之あるべく候。当座のまにあわせ異儀無き様に申し成す儀、曲事たるべき事。 とある。「法印」は、秀次の父三位法印常閑のことで、すでに老齢で、愚かなことがあるといっている。その三位法印を政務の代行者としたわけなので、秀次としても、満足のいく領国支配が進められない焦りはあったのであろう。
小和田 哲男. 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書) (pp. 109-110). (Function). Kindle Edition.
秀次切腹後の讃岐国への流刑について
なお三好吉房は1595(文禄4)年7月に豊臣秀次が切腹したことで、史料からその名前が見られなくなります。事件に連座する形で失脚したと推定されます。
インターネット上ではこのことをもって三好吉房は讃岐国への流刑に処され、1600(慶長5)年の関ヶ原の戦い後に帰京したとされています。
ただ黒田基樹さんによると秀次死後の三好吉房の動向については、確定情報ではなく、有力な伝承情報であると指摘されています。
三好吉房 関連記事と参考文献
三好吉房 関連記事
三好吉房については「三好常閑」として下記の記事でも言及しています。
三好吉房 参考文献
今回の記事は下記の書籍を参考文献としています。
- 黒田 基樹. 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)
