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豊臣秀長が生きていたら朝鮮出兵は回避できたのか

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豊臣秀長が長生きしたときの豊臣家について

豊臣政権No.2の豊臣秀長とNo.3の豊臣秀次

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長仲野太賀)は1591(天正19)年1月21日に大和郡山城で病死します。

天下一の補佐役」と呼ばれた豊臣秀長の死は、豊臣政権に様々な影響を及ぼします。例えば豊臣一門の筆頭大名が秀長から、それまで秀吉・秀長に次いでNo.3の地位にあった豊臣秀次が、No.2に引き上げられました。

1590(天正18)年の小田原征伐ののちに行われた奥羽地方の領土配分(奥州仕置)では、秀次による実務のもと伊達政宗や最上義光たち奥州地方の諸大名の領地が確定されていきます。

こうした領土配分はこれまで秀長の実務のもとに行われていたことを考えると、秀長が急死や急病などで動けなくなった場合には、秀次が秀長の立場を代行するものとあらかじめ想定されていたかもしれません。

「もし豊臣秀長が生きていたら」「もし豊臣秀長が長生きしていたら」

もっとも秀長は豊臣政権における存在感が大きかったために、「もし豊臣秀長が生きていたら」や「秀長が長生きしていたら」という問いがインターネット上でよく議論されています。

それらの議論の中にはこんなものがあります。

  • 「秀長が生きていたら秀次は切腹をせずに済んだのではないか」
  • 「秀長が生きていたら石田三成と徳川家康の対立はなかったのではないか」
  • 「秀長が長生きしていたら関ヶ原の戦いを回避できたのではないか」
  • 「秀長が長生きしていたら豊臣家が滅亡することはなかったのではないか」

そういった議論の中でも、今回の記事は「秀長が生きていたら朝鮮出兵を回避できた」のではないかというテーマについて取り上げます。

豊臣秀長が生きていたら朝鮮出兵はどうなっていたか?

秀長の存命のころから秀吉の東アジア外交は既定路線だった

結論から言うと、たとえ豊臣秀長が1591年に病気などで死ぬことなく、健在であったとしても豊臣秀吉による朝鮮出兵(文禄の役・慶長の役)は行われていた可能性は高いと考えられています。

なぜなら秀吉は1586(天正14)年に九州征伐を行っている頃から、すでに東アジア世界全体で豊臣政権を樹立させるために東アジアで外交活動を本格化させていたからです。

秀吉の外交方針は、ボルトガルのカトリック司祭でイエズス会から日本に宣教師として派遣されていた、ルイス・フロイスがその書簡の中でその構想を明らかにしています。

大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている柴裕之さんは、著書の「羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟」の中で、該当するルイス・フロイスの書簡を以下のように説明しています。

「天下一統」を成し遂げた羽柴秀吉は、豊臣政権のもとで統合がなされた日本(便宜上、〝豊臣日本〟とする)と変動する東アジア世界との関係に目を向けていく。これは、「天下一統」が実現したいま、国内だけで完結せず、東アジア世界における〝豊臣日本〟の位置づけが求められたからだ。秀吉は、東アジア世界に〝豊臣日本〟の存在を通じて自らの政治的・軍事的威勢(武威)を示すことを、後世に自身の名声を残す偉業として、強く認識し臨んできた(一五八六年十月十七日付ルイス・フロイス書翰〔『十六・七世紀イエズス会日本報告集』第Ⅲ期第七巻所収〕ほか)。

柴 裕之. 羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書) (pp. 193-194). (Function). Kindle Edition.

朝鮮が服属しない場合は軍事行動も辞さない方針だった

さらに柴さんは秀吉の外交方針についてこのように解説をしています。

その方針は、東アジア世界の中心(「中華」)を治める大国の明(中国大陸の王朝)には〝豊臣日本〟の優越のもとで通交を求め、その他の朝鮮や琉球など諸国や南蛮勢力(ポルトガル領の国々)には、国王の「参洛」(〝豊臣日本〟への出頭)や入貢という服属的な外交を要求し、応じない場合は「誅罰」(軍事討伐)を宣告するというものだった。

柴 裕之. 羽柴秀長 秀吉の天下を支えた弟 (角川選書) (p. 194). (Function). Kindle Edition.

東アジア諸国が日本の豊臣政権に従属しない場合は、国内で行った四国征伐や九州征伐と同様に、武力を使ってでも従わせるという秀吉の強硬な姿勢があったとうかがえます。

秀長が生きていれば肥前名護屋か釜山あたりに出陣していたか

こうした秀吉の「外交方針」を見ると、朝鮮や明を従わせることは秀長が在世していた時からの既定路線であり、たとえ秀長が健在であったとしても朝鮮出兵を避けることはできなかったでしょう。

実際の朝鮮出兵(文禄の役)では、秀長の後継者である豊臣秀保が1万の軍勢を率いて肥前名護屋に参陣。秀長・秀保の二代にわたって重臣を務めた藤堂高虎は朝鮮半島に渡海をしています。

こうした軍事行動を見ていると、もし豊臣秀長が生きていれば、朝鮮出兵のために肥前名護屋に参陣していたか、あるいは釜山あたりに布陣し、渡海した将兵を朝鮮半島の南部から督戦していたのではないでしょうか。

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豊臣秀長が生きていたら 参考資料

今回の記事を書くにあたって、大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている、柴裕之さんの著作を参考資料としています。

戎光祥出版
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著:柴 裕之
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