豊臣兄弟!の安藤守就
豊臣兄弟!の安藤守就とは
NHKの2026年大河ドラマ「豊臣兄弟!」で田中哲司さんがキャストされた安藤守就(あんどうもりなり)(1503~1582年)とは小一郎(仲野太賀)の正室(正妻)である慶(ちか)(吉岡里帆)の父です。
また安藤守就は稲葉良通(嶋尾康史)・氏家直元(河内大和)ともに、美濃国の大名である斎藤龍興に仕える美濃三人衆の一人としても知られています。
豊臣兄弟! 安藤守就の役柄
美濃三人衆の一人。小一郎・藤吉郎からの調略を受け、主君への忠義とのはざまで揺れることに。
豊臣兄弟! 安藤守就 役 田中哲司さんプロフィール
1966年生まれ、三重県出身。
NHKでは大河ドラマ「新撰組!」・「龍馬伝」・「軍師官兵衛」、連続テレビ小説では「まんぷく」、「らんまん」などに出演。
慶の父としての安藤守就
織田家への人質として小一郎に嫁ぐ慶
大河ドラマ「豊臣兄弟!」のガイドブックである「豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)」によると、美濃北方城主である安藤守就は慶の父としています。慶は斎藤家に仕える重臣に嫁いだものの、その夫が稲葉山城の戦いで戦死したため未亡人になっていました。
安藤守就は斎藤龍興(濱田龍臣)を裏切り織田信長(小栗旬)に寝返ったため、織田家における信用が必要です。その証として娘の慶を小一郎の妻として再嫁させたのです。
いわば慶は織田家におけるていのいい「人質」ということになります。
慶のモデル・慈雲院は実名も出自も不明
「豊臣兄弟!」ではなぜ慶が安藤守就の娘として小一郎の妻となったのか分かりやすく説明されています。
しかし実際のところ、慶のモデルとされる豊臣秀長の正室(正妻)・慈雲院(じうんいん)はどんな女性であったのか、秀長以上によく分かっていません。
「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている柴裕之さんは編著した「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」の総論として慈雲院は実名や出自が不明であると指摘されています。
慈雲院殿は、秀長死後の天正十九年(一五九一)五月に高野山奥之院(和歌山県高野町)で逆修供養をおこなった際に設けられた五輪の塔に、「大納言北方」とみえ、なおかつ嫡男・与一郎の母であることからして、秀長の正妻であったと推察される。生没年は不詳、また実名も不明である。
ちなみに「豊臣兄弟!」のもう1人の時代考証担当者である黒田基樹さんも、自著の「羽柴秀吉とその一族」で慈雲院は実名や生没年は不詳であると同じ指摘をされています。
慈雲院は1549年生まれで豊臣秀長の9才年下であると推定される
ただ柴裕之さんと黒田基樹さんの著作を合わせて読むと、慈雲院と秀長の婚姻時期は1567(永禄10)年ごろで、長男・与一郎が誕生するのは1568(永禄11)年ごろの可能性が高いと指摘していることが分かります。
仮に秀長の長男・与一郎が誕生したときに慈雲院の年齢が20才であるとすれば、慈雲院の生まれた年は1549(天文18)年となり、1540(天文9)年生まれの豊臣秀長と比べて慈雲院は9才年下ということになります。
「豊臣兄弟!」の安藤守就は小一郎に慶を引き合わせるのは、1569(永禄12)年ごろの話です。時代考証とドラマの設定はおおむね合致していると言えるでしょう。
安藤守就の動向
織田信長の家臣としての安藤守就
上述したように安藤守就は、他の美濃三人衆(氏家直元と稲葉良通)及び義理の息子である竹中半兵衛とともに、斎藤家を裏切り、稲葉山城を本拠地としていた斎藤龍興を美濃国から追い出します。
安藤守就は代わりに「稲葉山」の地名を「岐阜」と改めた織田信長に仕官。1570(元亀元)年6月28日に行われた姉川の戦いでは信長に対峙した1万3,000の朝倉・浅井連合軍のうち浅井軍に打撃を与えて戦線から退かせるという戦功も立てます。
姉川の戦い以降も近江や伊勢に転線し戦働きをし、安藤守就は信長から美濃国の大垣城を与えられるようようになりました。
晩年は織田家から追放されていた安藤守就
しかし1580(天正8)年になると安藤守就の人生は暗転。信長から謀反の嫌疑をかけられ、織田家から追放されます。
1582(天正10)年6月2日の本能寺の変で信長が明智光秀に討たれると、北方城の奪還に向かいますが、逆に当時の北方城主であった稲葉良通に返り討ちにされ戦死することになります。
豊臣兄弟! 安藤守就 関連記事と参考文献
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豊臣兄弟! 安藤守就 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。
