豊臣秀長の実子の娘たちとその長女について
豊臣秀長には実子の娘が2人いた
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(仲野太賀)は、その生涯において3人の実子を持つことになります。そのうち2人は女子で、長女を「おみや(三八)」と呼ぶ説があります(次女は「きく」でのちの大善院)。
その一方で大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当している黒田基樹さんと柴裕之さんの著作物を確認すると、秀長の長女を「おみや」とする記述はどこにも見当たりません。
むしろ黒田基樹さんと柴裕之さんのどちらも、豊臣秀長の長女の名前は「不明」としています。
豊臣秀長の長女とは
豊臣秀長の長女とは、秀長の側室(別妻)である摂取院光秀(せっしゅいんこうしゅう)との間に1587(天正15)年にできた子供のことです。
秀長の長女は1591(天正19)年1月、秀長が亡くなる直前に、秀長の後継者である豊臣秀保と婚約をしたため「秀保の妻」とも呼ばれています。
秀長の長女の詳細は下記の記事で紹介しています。
なお「秀保の妻」の動向を示す資料は8歳の時点で途切れているため、その後再婚をしていれば豊臣秀長の子孫を残している可能性があります。
「豊臣おみや」とはどこからきているのか
Wikipedia の「豊臣秀長」における「豊臣おみや」
2025年10月10日時点でのWikipediaで「豊臣秀長」のページを確認すると、秀長の実子としてこのような説明があります。
豊臣秀保室:天正15年(1587年)[40]、またはそれ以前に生まれる[41]。母は光秀尼[41][注釈 1]。天正16年(1588年)に長谷寺に奉納された金燈籠には、和州大納言秀長公姫君三八(みや)女と刻まれている。
「豊臣秀保室」つまり秀長の長女として誕生した年や母が摂取院光秀であることについては、注釈として出典を明らかにしていますが、「和州大納言秀長公姫君三八(みや)女」としていることについては注釈がありません。
ちなみに同じWikipediaの「豊臣秀長」のページで「凡例」を確認すると、秀長の家族関係に含まれる3人の実子について紹介していますが、「おみや」にあたる女性は「豊臣秀保室」としか記されていません。
同じWikipediaのページでも、豊臣秀長の長女に関する名前は統一されていないようです。
大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証担当者の著作物には登場しない「豊臣おみや」
一方、豊臣秀長の長女に関する記事を書くにあたって、上述した黒田基樹さんと柴裕之さんが書いた豊臣秀吉・豊臣秀長兄弟をテーマとした著作を読んでいますが、秀長の長女を「おみや(三八)」とする記述はどこにも見当たりません。
黒田基樹さん 著作物
- 「羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版
- 「羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書 677)」
- 「羽柴秀長の生涯: 秀吉を支えた「補佐役」の実像」平凡社新書
- 「秀吉を天下人にした男 羽柴秀長 大大名との外交と領国統治」 講談社現代新書
- 「羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人」角川選書
柴裕之さん 著作物
これら黒田さん・柴さんの著作以外にも豊臣秀長をテーマとした「豊臣秀長 ある補佐役の生涯 (PHP文庫)」・「図説 豊臣秀長――秀吉政権を支えた天下の柱石」・「豊臣秀長のすべて」の3冊を読みましたが、「豊臣おみや」という記述を見つけることはできませんでした。
よって当ブログでは秀長の長女は「豊臣おみや」と呼ぶことはせず、名前は不明のまま「秀長の妻」として呼称しています。
豊臣秀長 長女 「秀保の妻」関連記事
秀長の娘たち 長女:「秀保の妻」 次女: きく(大善院)養女: 岩(智勝院)について
なお豊臣秀長の長女、通称「秀保の妻」や次女のきく、さらに養女とした岩については下記の記事で紹介しています。合わせて参考にしてください
- 豊臣秀長 子供 「秀保の妻」 秀長の長女で母は摂取院光秀
- 豊臣秀長 子供 実子3人と養子3人 与一郎・千丸・秀保・岩・秀保の妻・きく
- 豊臣秀長 娘 岩・「秀保の妻」・きく 大河ドラマ 豊臣兄弟!
- 豊臣秀長 子供 岩(智勝院)秀長・慈雲院の養女
- 大善院(豊臣秀長長女)とは 豊臣秀長の娘 きく 豊臣兄弟!
