豊臣秀保の死と秀長の家系「大和大納言家」の断絶
豊臣秀保は17才で病死
2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の主人公・豊臣秀長(仲野太賀)の後継者である、豊臣秀保は1595(文禄4)年4月16日に療養をしていた大和国十津川にて病死します。享年17。
このとき豊臣秀保は痘瘡もしくは麻疹の一種に罹っており、同年4月10日ごろから急激に病状が重くなり、投薬治療の甲斐なく、亡くなったと考えられています。
秀保の死後、豊臣秀長の家系は断絶
豊臣秀保の死後、大和・紀伊の2カ国を領国とする秀長の家系、「大和大納言家」は一時、秀保の長兄・豊臣秀次の2才の息子が跡継ぎに迎えることを検討していました。
しかし、同年7月に「豊臣秀次切腹事件」が発生。そのためこの男の子が豊臣秀保の跡継ぎになるという話は立ち消えとなり、秀長の家系は断絶に至ります。
豊臣秀保の死因について
桑田忠親氏による「豊臣秀保の病死説」
こうした「豊臣秀保の死は病死だった」という考え方は、豊臣秀吉の研究で知られる國學院大学名誉教授の故・桑田忠親氏によるものです。
桑田氏は「駒井日記」(京都大学PDFファイル)にある1595(文禄4)年4月10日以降の記述に基づき、豊臣秀保は痘瘡(疱瘡)もしくは、「のけほろし」や「かさほろし」と呼ばれた麻疹の一種に罹っていたことを説明しています。
さらに桑田氏は、秀保の治療についても吉田浄慶や曲直瀬正琳による投薬治療を受けていたことを明らかにしています。
「豊臣秀保の横死・溺死説」は誤り
一方で豊臣秀保の死は「癲疾(癲癇)による横死や溺死」と考える説もあります。秀保が横死あるいは溺死したという説は主に「武徳編年集成」によるものでしょう。
「武徳編年集成」によると秀保は癲癇(てんかん)の発作を起こし、自分の小姓に対して十津川の温泉から吉野川に向かって飛び降りるよう無茶な命令を出します。
その小姓は泳ぐことができなかったため、秀保に抱きつき共に飛び降りて秀保は溺死したということになっています。
しかし「武徳編年集成」は「秀保」と書くべき箇所を「秀俊(小早川秀秋のこと)」として記述に間違いがあり、桑田氏はこの説を否定しています。
なお『公卿補任』にも横死としてあることは、既に掲げた如くである。しかしながら、これらはすべて後世の俗説であって、訂正すべきところが多いのである。以下『駒井日記』によって実情を究め、大和中納言のために弁護の労をとってみよう。
柴裕之編著「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」戎光祥出版 354ページより
豊臣秀保 死因 関連記事と参考資料
豊臣秀保 関連記事
豊臣秀保については下記の記事でも言及をしています。合わせて参考にしてください。
豊臣秀保 死因 参考資料
今回の記事を書くにあたっては以下の2冊の本を参考資料としています。
また記事の中で紹介した故・桑田忠親氏の研究とは、「豊臣秀長 (シリーズ・織豊大名の研究)」の第2部「豊臣一門大名秀長の領国支配と一族・家臣」を構成する「Ⅵ 羽柴秀保について」という桑田氏の論考に基づいています。