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羽柴秀勝(於次丸)死因 18才で病死か 丹波亀山領は小吉秀勝に

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丹波亀山を所領としてから死去するまでの羽柴秀勝(於次丸)の動向

羽柴秀勝(於次丸)は18才で死去

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で藤吉郎(池松壮亮)、のちの羽柴秀吉の養子である羽柴秀勝(於次丸)は、1585(天正13)年12月10日に死去します。享年18。

羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究)」の第1部「Ⅵ 御次秀勝と生母養観院」によると、秀勝は1583(天正11)年2月ごろから病気を繰り返していることを言及しています。

10代後半で亡くなったことを考えると、おそらく羽柴秀勝の死因とは何らかの病気だったのではないでしょうか。

丹波亀山時代から亡くなるまでの年表

羽柴秀勝は実父・織田信長が1582(天正10)年6月に本能寺の変で敗死したのち、織田家重臣の間で行われた同年6月27日の「清須会議」での所領配分を経て丹波亀山の領主となります。

羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究)」の第1部「Ⅵ 御次秀勝と生母養観院」の記述に基づき、丹波亀山を所領としたのちの羽柴秀勝の動向を年表にすると以下の通りとなります。

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西暦(和暦)出来事
1583(天正11)年2月病に倒れる
1583(天正11)年4月賤ヶ岳の戦いに従軍
1584(天正12)年5月小牧長久手の戦いの従軍中に病気。丹波亀山に帰国
1584(天正12)年10月病状がさらに悪化
1584(天正12)年12月病状が回復。毛利輝元養女と大坂城で結婚
1585(天正13)年正月鷹狩りに出かける
1585(天正13)年12月20日死去

羽柴秀勝(於次丸)の死後について

羽柴秀勝(於次丸)の妻は安芸国に帰国し再嫁

1584(天正12)年12月、羽柴秀勝は毛利輝元の養女(名前不明)と結婚しています。

羽柴秀吉とその一族」によると、この女性は毛利家重臣・内藤元種(ないとうもとたね)の娘で、1586(天正14)年から1589(天正17)年までの間に安芸国に帰国。その後1589(天正17)年までの間に毛利家家臣の宍戸元続(ししどもとつぐ)に再嫁したと伝えています。

なお羽柴秀勝(於次丸)と毛利輝元の養女の夫妻の間に子供はいないと考えられます。

丹波亀山は豊臣秀勝(小吉)の所領に

また羽柴秀勝が亡くなったことで丹波亀山の地には、豊臣秀吉の甥で日秀尼の次男である、通称「小吉」と呼ばれた豊臣秀勝が入国し、統治を任されるようになります。

豊臣秀勝はそれまで近江勢田・摂津安岡寺・摂津富田宿久などを所領としていました。

丹波亀山領を統治することで、豊臣一門衆の大名として豊臣秀長(大和国・紀伊国・和泉国)・豊臣秀次(近江八幡山)に次いで、No.3の地位を確立するに至ります。

羽柴秀勝(於次丸)死因 関連記事と参考文献

羽柴秀勝(於次丸)死因 関連記事

「於次丸」と呼ばれた羽柴秀勝については下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。

羽柴秀勝(於次丸)死因 参考文献

今回の記事を書くにあたって以下の文献を参考にしました。これらの著者のうち黒田基樹さんは2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。

著:黒田 基樹
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