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豊臣兄弟! 織田信長はどうなる?本能寺の変で死亡する理由とその後の展開ネタバレ

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目次

織田信長はどうなる?本能寺の変で家臣に討たれて死亡

織田信長はいつ死亡した?

「豊臣兄弟!」の織田信長は1582(天正10)年6月2日、京・本能寺で自害したことによって死亡しました。

いわゆる「本能寺の変」において重臣・明智光秀に裏切られた上での最期です。

本能寺の変とは何か

本能寺の変(ほんのうじのへん)は、1582(天正10)年6月2日早朝に、明智光秀が謀反を起こし、京の本能寺に滞在する主君・織田信長を襲撃した事件です。

この事件によって織田信長と嫡男・信忠が戦死。織田家内部の政治勢力が一気に変わる、日本史上でも稀にみる政変でした。

信長の死後、天下はどう動いたか

織田信長が死去したのち、明智光秀は同年6月に行われた羽柴秀吉との「山崎の戦い」で敗死しました。

その後、織田家内部の勢力争いは羽柴秀吉と筆頭家老・柴田勝家の争いに発展。1583(天正11)年4月の「賤ヶ岳の戦い」によって勝家を制した秀吉、が天下統一(天下一統)の事業に名乗り出ることになります。

織田信長はなぜ本能寺の変で討たれたのか

重臣・明智光秀の反乱の背景

明智光秀が織田信長に反乱を起こした背景と理由には、主に長宗我部元親との外交交渉で面目を失ったことと、領地召し上げが挙げられます。

明智光秀は長宗我部元親との外交で面目丸潰れにされていた

織田信長は、足利義昭によって1569(永禄12)年ごろから1573(天正元)年ごろにかけて築かれた「反信長包囲網」に苦しめられていた頃、土佐国の戦国大名・長宗我部元親とは何としても友好関係を保っておきたかったようです。

そのため重臣の明智光秀に長宗我部元親と和平することを前提とした外交交渉にあたらせていました。

その交渉をするための条件1つとして、信長は元親に対し「四国は切り取り次第」の約束をしました。つまり「四国に関しては元親が奪った分だけそのまま領土にすれば良い」としていたのです。

ところが元親が本当に四国全島を切り取ろうとした1581(天正9)年、信長は約束を反故。阿波国の一部を三好康信に返却せよと言い出します。

当然のことながら、これまで長宗我部家との外交交渉を担っていた明智光秀の面目は丸潰れです。

丹波と近江坂本の領地召し上げで叛意を抱いた明智光秀


約束を反故にされた元親は反発し、阿波国を返すどころか讃岐国にまで進軍。これに怒った信長は三男・織田信孝と重臣・丹羽長秀に四国への渡海を1582(天正10)年5月14日付で命令しました

しかもこの四国遠征のために使われる兵糧・武器弾薬・馬のための飼料など兵站物資は全て丹波国から徴発されることも併せて決定。

光秀は四国遠征のために丹波国の物資が使われることは知らされておらず、代わりに信長から与えられた命令は以下の内容でした。

  • 備中国に出陣して羽柴秀吉を助けよ
  • 現在の所領である丹波1国と滋賀郡(近江坂本)の領地は召し上げ
  • 代わりに出雲・石見の2カ国を与える

一見すると、光秀の所領は1カ国と1郡から2カ国になるので加増されたように見えます。しかし出雲と石見はこれから攻める毛利家の領地でした。つまり「領地は戦に勝って毛利から奪え」と言う一種の「空手形」です。

豊臣秀吉の研究で知られる、國學院大学の故・桑田忠親名誉教授によると、信長が光秀に発行したこの「空手形」こそ、光秀が反乱を起こした真因ではないかと指摘されています。

これまでの一国一郡が二国になるのだから、加増には違いないけれども、その新たな二カ国というのが、斬り取りしだいという条件であって、戦勝の結果もらえるかもしれない。いわば、空手形にすぎない。もし毛利軍と戦って光秀が負ければ、元も子もなくなるわけだ。光秀は、絶対絶命の窮地に追い込まれたのである。光秀反逆の真因は、このへんにあったと、筆者は推測している。

桑田忠親 豊臣秀吉研究 上 角川選書クラシックス (角川選書 1402) 206ページ

なぜ信長は無防備だったのか

1582(天正10)年6月2日に「本能寺の変」が起こる直前、畿内とその周辺に信長配下の武将たちには、ことごとく備中への出陣命令が下されていました。

丹後の細川藤孝・忠興親子、摂津の池田恒興・高山重友(右近)・中川清秀、大和の筒井順慶など、合計5万にも及ぶ軍勢が、明智光秀同様に出陣の準備に追われていた状況です。

一方、光秀は、5月27日ごろには信長が京・西洞院にある本能寺において、小姓衆70人とともに宿泊する情報を得たのではないかと、桑田忠親名誉教授はその著作「豊臣秀吉研究 上」の中で説明されています。

つまり畿内一円には大兵力を備えていたものの、信長の身辺には100人にも満たない小姓たちしかいなかったのです。光秀はこのような信長の無防備な状態に、一か八かの大博打を仕掛けたと言えるでしょう。

絶頂期にあった信長の慢心と油断

1582(天正10)年当時の信長は、もはや畿内一円を完全に掌握し、足利義昭を追放したことで、名実ともに中央政権の支配者となっていました。

さらに中国方面では豊臣秀吉が毛利氏を圧迫し、四国・九州・関東でも織田勢の優位は揺るぎないものとなっており、天下統一は目前と見られていました。

こうした状況の中で、信長の行動には明らかに「警戒の緩み」が見られます。京都滞在中の本能寺では、わずか小姓衆を中心とした少人数の供回りしか置かず、大軍を伴わないまま宿泊していました。本来であれば、全国規模の戦争を指揮する最高権力者がこのような軽装でいること自体、極めて異例です。

また、信長は家臣団を広範囲に分散配置し、それぞれに遠征を命じていました。結果として、畿内周辺には信長を直接防衛できる大規模な戦力がほとんど存在しない状況が生まれます。

これは裏を返せば、「もはや自分に対して大規模な反乱を起こす者はいない」という認識があった可能性を示しています。

さらに、明智光秀のような有力重臣に対しても、急な命令変更や厳しい処遇を繰り返していた点は、権力の絶頂にあった信長の心理状態を反映していると考えられます。すなわち、家臣の不満や不安を軽視し、「統制できる」という過信があったとも言えるでしょう。

こうした複数の要因が重なった結果、信長は本能寺において極めて無防備な状態に置かれ、結果として光秀の急襲を許すことになりました。

本能寺の変は単なる奇襲ではなく、「絶頂期ゆえの油断」が招いた側面も大きいと考えられています。

本能寺の変を巡る諸説

本能寺の変の原因については、現在に至るまで定説は存在せず、さまざまな説が提唱されています。なかでも代表的なのが、以下のような説です。

明智光秀単独犯行説(通説)

最も一般的なのは、明智光秀が単独で反乱を決意したとする説です。

四国政策の変更や領地替え(いわゆる「空手形」)、さらには日常的な叱責などが積み重なり、光秀が追い詰められた結果として挙兵したと考えられています。

すでに説明した「四国問題+空手形」問題は、この説の中核に位置する非常に有力な根拠です。

怨恨説(個人的恨み)

信長による折檻や侮辱が積み重なり、光秀が個人的な恨みから反乱を起こしたとする説です。ただし、単なる感情だけで天下人に刃を向けるのはリスクが大きすぎるため、これ単独では説明が不十分でしょう。

黒幕説(他勢力関与)

本能寺の変の背後に別の勢力が関与していたとする説です。代表例としては、

  • 徳川家康黒幕説
  • 朝廷関与説
  • イエズス会関与説

などが挙げられます。ただし、いずれも決定的な証拠に乏しく、あくまで可能性の一つとして議論されています。

政治的クーデター説

信長の急激な中央集権化や宗教勢力の弾圧に対し、既存勢力との軋轢が高まり、その中で光秀がクーデターを起こしたとする見方です。

この説では、本能寺の変を「個人の反乱」ではなく、「構造的な権力衝突」として捉えます。

結論:複合要因説が有力

現在では、

  • 四国政策の変更(外交失敗)
  • 領地替えによる不安(空手形)
  • 信長の強権的な統治

となど複数の要因が重なった結果として、光秀の決断に至ったとする「複合要因説」が有力とされています。

織田信長が天下統一に迫るまでの流れ

武田信玄の病死

1568(永禄11)年9月に足利義昭を奉じて上洛を果たし、「天下布武(五畿内とその周辺諸国の平定)」を唱えた織田信長でしたが、1570年代の前半はピンチの連続でした。

自らが奉じたはずの第15代将軍・足利義昭が室町幕府の権威を利用して、「反信長包囲網」を築いていたからです。その主なメンバーや勢力には、浅井長政・朝倉義景・三好三人衆・比叡山延暦寺・石山本願寺などが・武田信玄など挙げられます。

ただこの「反信長包囲網」を突き崩すきっかけとなったが、戦国最強とも謳われた騎馬軍団を擁する武田信玄の病死でした。1573(元亀4)年4月に信玄が亡くなり、武田軍そのものが上洛を中止し、甲斐に戻ると「反信長包囲網」の勢力が急に弱体化し始めます。

足利義昭の追放

信玄が上洛しその援軍を期待して挙兵した足利義昭は、同年5月に行われた「槙島城の戦い」で信長の前に敗退。

この敗北によって室町幕府は完全に滅亡し、義昭自身は京から追放され、毛利家の領地だった備後鞆(現在の広島県福山市)で亡命生活を余儀なくされました。

浅井長政・朝倉義景の滅亡

室町将軍という「首魁」を失った「反信長包囲網」は、脆くも崩れ去ります。信長は同年8月に孤立した小谷城に籠る義弟の浅井長政を包囲。

8月中旬ごろに小谷城の救援にやってきた朝倉軍を逆に本拠地がある一乗谷まで追い詰め、越前の戦国大名・朝倉義景は自害。さらに信長が小谷城に総攻撃をかけ、9月1日に浅井長政が自害。

この時点でも畿内にはなお石山本願寺などの反対勢力が残っていましたが、朝倉家と浅井家の滅亡により、信長による天下統一が大きく進んだことは間違い無いでしょう。

織田信長の死が戦国時代をどう変えたのか

天下統一が目前で崩れた理由(本能寺の変)

1582(天正10)年6月2日、京・本能寺において、織田信長は重臣・明智光秀の急襲を受け、自刃に追い込まれました。これが「本能寺の変」です。

当時の信長は、すでに足利義昭を追放し、さらに浅井長政・朝倉義景といった有力大名を滅ぼすことで、畿内とその周辺地域を完全に掌握していました。中国地方では豊臣秀吉が毛利氏を圧迫し、天下統一は目前と見られていた状況です。

しかし、こうした「あと一歩」という段階で発生した本能寺の変は、単なる主君殺害にとどまらず、織田政権そのものを一瞬で崩壊させる決定的な事件となりました。

その最大の理由は、織田政権の構造にあります。信長の権力は極めて強力である一方で、それは信長個人の統率力に大きく依存していました。のちの徳川幕府のような安定した政権機構はまだ整備されておらず、信長という「個人」が消えた瞬間、政権の中枢そのものが空洞化してしまったのです。

さらに、本能寺の変が起きた時点で、織田家の主力軍は全国各地に分散しており、信長の急死に即応できる体制にはありませんでした。

このため、「本能寺の変」によって「天下統一目前」という状況は一夜にして崩れ去ることになります。

権力の空白が生まれた背景

信長の死によって最も大きく変わったのは、「誰が天下を握るのか」という問題が一気に白紙に戻った点です。

「本能寺の変」によって織田家の当主となっていた嫡男・織田信忠も二条城で戦死。しかも次男・信雄は北畠家へ、三男・信孝は神戸家へ、五男・於次丸秀勝などは羽柴家へそれぞれ養子に出されていたため、織田家は一気に指導者を失うことになりました。

この「権力の空白」をめぐって、織田家臣団の間で主導権争いが始まります。とりわけ中国地方で戦っていた豊臣秀吉は、いち早く光秀討伐に動き、山崎の戦いでこれを破ることで一気に主導権を掌握しました。

一方で、徳川家康もまた勢力を維持し続け、やがて秀吉と並ぶ有力者へと成長していきます。こうして信長の死は、単なる一大名の最期ではなく、「次の時代の覇者を決める争いの始まり」を意味していました。

結果として、本能寺の変は戦国時代の終盤における最大の転換点となり、織田から豊臣、そして徳川へと続く新たな権力構造への移行を決定づけた出来事だったと言えるでしょう。

信長の死後、天下を取ったのは誰か

羽柴秀吉の台頭(山崎の戦い)

本能寺の変によって織田信長が討たれた直後、天下の行方は一気に不透明となりました。しかし、この混乱の中で誰よりも迅速に行動したのが、信長の有力家臣であった豊臣秀吉です。

当時、秀吉は中国地方で毛利氏と対峙していましたが、本能寺の変の報を受けるとただちに毛利方と和睦を結び、主力軍を率いて畿内へと引き返します。いわゆる「中国大返し」と呼ばれるこの迅速な撤退・進軍は、秀吉の機動力と判断力の高さを象徴する出来事です。

一方、謀反を起こした明智光秀は、信長討伐には成功したものの、その後の政権構想を十分に固めることができていませんでした。畿内の掌握を急ぐ中で、諸大名や有力武将からの支持も広がらず、孤立した状態に陥ります。

そして1582(天正10)年6月13日、山崎の地において秀吉軍と光秀軍が激突。これが「山崎の戦い」です。兵力・士気ともに優位に立った秀吉軍は光秀軍を破り、光秀は敗走の途中で命を落とします。

この勝利によって、秀吉は「主君・信長の仇を討った武将」として、のちに開かれた清須会議における織田家内部の主導権に参加できるようになりました。

羽柴秀吉が織田家を超えた瞬間(賤ヶ岳の戦い)

山崎の戦いで明智光秀を討った羽柴秀吉は、清須会議を経て織田家中での発言力を急速に高めていきます。しかしこの時点の秀吉の立場は、あくまで織田家の一家老に過ぎず、筆頭家老・柴田勝家との主導権争いが続いていました。

この対立が決定的に表面化したのが、1583(天正11)年4月20日から21日かけて行われた「賤ヶ岳の戦い」です。織田家の当主をめぐって対立した秀吉と柴田勝家は、北近江の賤ヶ岳を舞台に激突。

この戦いで秀吉は、岐阜の戦線から北近江の戦線までわずか1日で移動するという迅速な対応によって戦況を逆転させ、最終的に柴田勢を撃破しました。

敗れた柴田勝家は越前・北庄城で自害。ここに織田家中における最大の対抗勢力が消滅します。この勝利によって、秀吉はもはや「織田家の一家臣」ではなく、事実上、織田政権を継承する立場へと躍り出ました。

賤ヶ岳の戦いは、秀吉が織田家の枠を超え、天下人へと踏み出した決定的な転換点だったと言えるでしょう。

「豊臣政権」成立への流れ

賤ヶ岳の戦いで主導権を握った秀吉は、その後も着実に勢力を拡大していきます。1584(天正12)年には徳川家康と対峙した「小牧・長久手の戦い」が起こりますが、最終的には和睦が成立し、家康との全面対決は回避されました。

さらに秀吉は、朝廷との関係を積極的に強化していきます。1585(天正13)年には関白に任じられ、翌年には「豊臣」の姓を賜ることで、武家政権としての正統性を確立しました。

これは、従来の武力による支配に加え、朝廷権威を取り込んだ新たな支配体制の成立を意味します。

その後も四国・九州・関東へと勢力を拡大し、1590(天正18)年の小田原征伐によって全国の大名を服属させたことで、名実ともに天下統一を成し遂げました。

このような経緯を経て成立した豊臣政権は、織田信長の路線を引き継ぎながらも、より制度化された形で全国支配を実現した政権でした。

この流れこそが、「豊臣兄弟!」で描かれる時代の核心部分へとつながっていくのです。

織田信長とはどんな人物か

革新者としての評価

織田信長は、戦国時代の中でも特に革新的な発想を持った大名として評価されています。従来の慣習や権威にとらわれず、新しい制度や戦術を積極的に取り入れた点が最大の特徴です。

たとえば、関所の撤廃や楽市楽座の実施によって商業活動を活性化させ、経済基盤を強化しました。また、鉄砲の大規模運用や部隊編成の合理化など、戦術面でも従来の戦い方を大きく変革しています。

さらに、室町幕府という既存の権威に依存せず、自らの力で政治秩序を再構築しようとした点も重要です。こうした姿勢は、それまでの守旧的な大名とは一線を画しており、信長が「戦国時代を終わらせた先駆者」と評価される理由となっています。

冷酷な支配者としての側面

一方で、信長は非常に苛烈で冷酷な支配者であったとも言われています。反抗する勢力に対しては徹底的な武力行使を行い、その象徴的な例が比叡山延暦寺の焼き討ちや、一向一揆への弾圧です。

これらの行動は、宗教勢力や既存の権威に対して容赦なく対処する姿勢を示すものであり、当時としても極めて強硬なものでした。また、家臣に対しても厳格で、成果を上げれば大きく取り立てる一方で、失敗や不満には容赦なく処罰を与えるなど、統治の在り方には強い緊張感が伴っていました。

こうした側面は、信長の急速な勢力拡大を可能にした要因でもありますが、同時に家臣団の不満や恐怖を生み、本能寺の変の遠因の一つになったとも指摘されています。

なぜ歴史に大きな影響を与えたのか

信長が歴史に与えた最大の影響は、「戦国時代の終焉を決定づける流れを作ったこと」にあります。

中世における日本は、将軍や守護といった伝統的な権威を中心に政治が行われていましたが、信長はそれらを実質的に解体し、武力と実力による新たな支配体制を築こうとしました。この姿勢はそれまでの日本の政治構造そのものを大きく変える試みでした。

また、信長が整えた軍事・経済・統治の基盤は、やがて豊臣秀吉や徳川家康へと引き継がれ、やがて全国統一と江戸幕府の成立へとつながっていきます。

つまり信長は、自身で天下統一を果たすことはできなかったものの、その後の日本の歴史を決定づける「道筋」を作った人物だったと言えるでしょう。

織田信長はなぜ強かったのか|天下統一に迫った理由

革新的な戦術と鉄砲の活用

信長の強さを語る上で欠かせないのが、戦術面での革新です。特に鉄砲の組織的な運用は、それまでの戦国大名には見られなかった特徴でした。

代表的なのが「長篠の戦い(1575年)」における鉄砲隊の運用で、複数列で交互に射撃する戦術によって、騎馬軍団を主体とする敵軍を効果的に撃破しました。こうした合理的かつ再現性の高い戦術は、戦場における優位性を大きく高めることになります。

また、信長は兵士を農村と切り離すことも積極的に行っていたようです。戦国時代の前半において兵士の主体は農村出身の農民兵でしたが、信長は足軽のような下級兵士についても「職業軍人」として扱っていました。

これにより「農繁期になると戦ができなくなる」という軍制の弱点を補い、一年中いつでも出兵可能な軍隊を擁していたことも見逃せないでしょう。

有力大名を次々と打ち破った戦略

信長は単に戦いが強かっただけでなく、戦略面でも極めて優れていました。敵対勢力を一度に相手にするのではなく、状況に応じて個別に各個撃破していくことで、徐々に勢力を拡大していきます。

たとえば、「反信長包囲網」に対しても、まず武田信玄の死による隙を突き、その後に足利義昭を追放し、さらに浅井長政・朝倉義景を滅ぼすなど、順序立てて敵を排除していきました。

このように、戦う相手とタイミングを慎重に選ぶ戦略によって、信長は常に主導権を握り続けることができたのです。

家臣団(柴田勝家・明智光秀・羽柴秀吉)の存在

信長の強さを支えたもう一つの大きな要因が、有能な家臣団の存在です。

柴田勝家は北陸方面での軍事を担い、明智光秀は畿内の統治や朝廷外交を担当、そして豊臣秀吉は中国地方攻略の最前線で活躍するなど、それぞれが重要な役割を果たしていました。

信長はこうした家臣たちに大きな権限を与えつつ、成果主義によって評価することで、組織全体のパフォーマンスを最大化していました。この柔軟かつ実力重視の人材運用が、織田軍の強さを支える基盤となっていたのです。

織田信長と敵対した戦国大名たち

武田信玄・浅井長政・朝倉義景・足利義昭など

信長は数々の有力大名や諸勢力と戦い、最終的にこれらの勢力を打ち破りました。

  • 武田信玄 → 病死(のちに息子・武田勝頼を自害に追い込む)
  • 浅井長政 → 滅亡
  • 朝倉義景 → 滅亡
  • 足利義昭 → 追放

それぞれの詳細は以下の記事で解説しています。

豊臣兄弟! 全話あらすじと最終回までのネタバレ

豊臣兄弟! 全話あらすじ

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の全話あらすじや登場する人物たち・人間関係・相関図などについては下記の記事を参考にしてください。

豊臣兄弟! 最終回までのネタバレ

また最終回までのネタバレ・史実・結末などのまとめについては下記の記事が参考になるでしょう。

豊臣兄弟! 織田信長はどうなる? 関連記事と参考文献

豊臣兄弟! 織田信長はどうなる? 関連記事

織田信長が本能寺の変で敗死したのちに開かれた「清須会議」では信長の妹・お市と筆頭家老であった柴田勝家の結婚が決まりました。お市と柴田勝家がどのような理由で結婚したかについては下記の記事が参考になるでしょう。

豊臣兄弟! 織田信長はどうなる? 参考文献

今回の記事は下記の6冊の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。

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