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豊臣兄弟! お市はどうなる?死亡の結末と史実ネタバレ|その後まで解説

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目次

お市とはどんな人物か(簡単に解説)

お市は織田信長の妹として生まれた女性

「豊臣兄弟!」に登場するお市(1550~1583年)とは、織田信長の妹として知られた女性です。

「豊臣兄弟!」の時代考証を担当する黒田基樹さんの研究によると、お市と信長の父である織田信秀の末娘であることが分かっています。

浅井長政の妻として戦国時代を生きた人物

1567(永禄10)年、織田信長は北近江の大名(または国衆とも考えられる)・浅井長政と同盟を結びます。その際、お市はその証として浅井長政と結婚しその妻となりました。

お市はどうなる?結末と死亡のネタバレ【最初に知りたい人向け】

お市はいつ死亡した?

「豊臣兄弟!」に登場するお市(宮﨑あおい)が死亡したのは、1583(天正11)年4月24日の早朝ごろと考えられています。

柴田合戦記」によると、早朝3時ごろから羽柴秀吉による北庄城総攻撃が始まっており、二の丸・本丸で激しい戦闘が行われていました。

お市の死因は?なぜ自害したのか

お市の死因は柴田勝家に刺殺されたことによるものです。

お市が亡くなる直前には、羽柴秀吉の軍勢が本丸の天守閣最上階にまで迫っていました。すでに死を覚悟していた柴田勝家とお市の夫妻は、先に勝家がお市に手をかけ、直後に勝家も切腹して果てたと伝わっています。

「豊臣兄弟!」 全話あらすじとネタバレはこちら

2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」の1話から最終話までのあらすじとネタバレは、それぞれ以下の記事詳しく紹介しています。今回の記事と合わせて参考にしてください。

お市と夫・浅井長政の結婚生活から別れまで

織田と浅井の同盟が破棄される

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の浅井長政は、10話「信長上洛」で描かれる通り、1567(永禄10)年から1568(永禄11)年ごろに織田信長の妹・お市と結婚。浅井家と織田家は婚姻政策による同盟関係に入ります。

1570(元亀元)年1月、織田信長の軍勢が越前の朝倉義景を討伐するために、京から若狭国を経由して越前に侵攻。同年4月25日には手筒山(天筒山)城を落城させ、翌26日には織田軍は金ヶ崎城を包囲。

このとき浅井長政は越前に侵入した織田を見捨てることを決断。長年の同盟関係にあった朝倉方につき、信長を南から襲撃することを計画します。しかし信長は事前に浅井長政の裏切りを察知し、敦賀を経由して京まで無事に撤退。

この「金ヶ崎の退き口」から3年以上にわたる浅井・朝倉と織田が抗争が始まりました。

浅井長政が自害し織田家に出戻り

両者の抗争には、足利義昭・三好三人衆・比叡山延暦寺・武田信玄・石山本願寺などが介入するなど、一時的に浅井・朝倉方が優位に進めることもありましたが、結局はそれぞれの勢力を各個撃破していく織田信長の勝利に終わります。

1573(天正元)年8月には朝倉義景は、本拠地が越前国一乗谷まで攻め込まれ自害。翌月の9月1日には浅井長政も小谷城の本丸に追い詰められて自害し、浅井家は完全に滅亡します。

小谷城が落城する間際にお市は、3人の幼い娘(茶々・初・江)と共に城を退去。その身柄は織田方に預けられました。

お市と兄・織田信長との別れ

叔父・織田信次と兄・織田信長の庇護を受ける

小谷城が落城した直後にお市と3人の娘たちを庇護したのは、尾張国守山城主・織田信次でした。織田信次とは織田信秀の末弟であり、お市から見ると叔父と姪の関係に当たります。

しかし1574(天正2)年に織田信次は、長島一向一揆の戦いで戦死。そのためお市と3人の娘たちの庇護者は、兄・織田信長に変わり、母娘たちは岐阜城で居住することになります。

織田信長が本能寺の変で敗死

1582(天正10)年6月2日、織田信長が本能寺において敗死(本能寺の変)

この事件はお市と3人の娘たちにとって、単に庇護者を失っただけにとどまりません。お市と3人の娘たちの運命が、織田家当主の地位を巡る、柴田勝家と羽柴秀吉の抗争に巻き込まれていくことを意味しました。

「清須会議」でお市が柴田勝家と結婚した理由

「清須会議」の開催

羽柴秀吉が明智光秀を討った山崎の戦いののち、1582(天正10)年6月27日。

信長とその長男であった信忠亡き後の織田家の当主と、その後見人を決めるために、柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀・池田恒興といった織田家の重臣たちの間で会議が開かれます。世に言う「清須会議」です。

会議では信長の嫡孫にあたる三法師(のちの織田秀信)が織田家当主となり、その後見人を信長の三男である信孝が務めることが決定しました。

なぜお市は柴田勝家と結婚したのか?

清須会議では織田家の跡目とともに、信長の妹であるお市は柴田勝家に嫁ぐことも決まります。なぜ織田家の跡目を決める会議で、お市と柴田勝家の結婚が決まるのでしょうか?

清須会議に出席した織田家の重臣のうち、特に力があるのは柴田勝家・羽柴秀吉・丹羽長秀の3人です。

彼らのうち秀吉は信長の五男・於次丸秀勝を、長秀は信長の庶兄・織田信広の娘を、それぞれ養子と妻に迎えており、織田家とは姻戚関係にありました。しかし、3人のうち勝家だけが織田家との姻戚関係がなかったのです。

勝家も信長の実子のうち男子であれば養子に、女子であれば自身の妻にすることも考えられなくはありません。そうすることによって秀吉・長秀の間で織田家内部における政治的なパワーバランスを保つことができます。

しかし、信長の残った子供たちを「養子候補」や「妻候補」として見ると、全て幼少すぎるという問題がありました。そこで代わりに浮上した案が、勝家は信長の妹・お市と結婚するという案です。

「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されている黒田基樹さんの著作「お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像」によると、「清須会議」でお市と柴田勝家が結婚した理由をこう指摘しています。

また新たな織田体制における双璧が、秀吉と勝家であったことは間違いなく、そのうち秀吉は信長実子と姻戚関係にあった。したがって勝家も、それに匹敵する姻戚関係の形成をはかったに違いない。その場合、秀吉と同じく、信長の実子の男子を養子に迎えるなり、娘を嫡男の妻に迎えるという方法もあったであろう。しかし当時、秀吉養嗣子の秀勝よりも下の信長の男子は、まだ元服前であったし、娘は結婚するには年少すぎるものばかりであったから、それらは現実味がなかったのであろう。その結果として、採用されたのが、信長の妹と勝家の結婚であったのではなかろうか。

黒田基樹 お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書) (p. 110). (Function). Kindle Edition.

お市の最期|死亡の経緯と柴田勝家との最期

柴田勝家と羽柴秀吉の抗争が激化

「清須会議」によって新しくなった織田家の体制は安定するかと思われましたが、内部ではすぐに亀裂が生じ始めます。

三法師を擁する三男・織田信孝が「後見」にとどまらず「名代」化しつつあり、一方で三法師の威光を取り込みたい羽柴秀吉は安土城の再建を急ぐようになっていました。

こうした信孝と秀吉の政治的勢力争いを見た、勝家は三法師が秀吉側に取り込まれることを恐れ、信孝と協同して歩調を取ることに。

その勝家・信孝と秀吉の政治的対立が決定的となった出来事が、1582(天正10)10月28日に起こった政変です。秀吉は丹羽長秀・池田恒興と図って、織田家当主を三法師から信長の次男・織田信雄に変えることを決定。

こうして織田家は、三法師を擁する織田信孝・柴田勝家派と、信雄を擁する羽柴秀吉派に完全に分裂しました。

賤ヶ岳の戦いで勝家が秀吉に敗退

勝家と秀吉の間での本格的な軍事的衝突は、1583(天正11)年1月から始まります。

まず柴田勝家に味方する滝川一益が北伊勢で挙兵し、2月10日に羽柴秀吉は北伊勢に進軍。一益を北方から支援するため、勝家も2月28日に挙兵し、越前の北庄城(現在の福井県福井市)から近江北部の柳ヶ瀬(現在の滋賀県長浜市)まで進軍。

さらに4月に入ると岐阜城を本拠する織田信孝も挙兵。秀吉は信孝の挙兵に対応するため、柳ヶ瀬で勝家と対峙していた本隊を、近江北部から美濃国大柿(現在の岐阜県大垣市)に振り向けます。

すると勝家は4月20日、甥・佐久間盛政に賤ヶ岳にいた秀吉軍の別働隊を攻撃させました。世に言う「賤ヶ岳の戦い」の始まりです。

「賤ヶ岳の戦い」の序盤こそ柴田軍は優位に戦況を進めることができましたが、大柿から戻った秀吉の本隊が戻ってくると21日には柳ヶ瀬の柴田軍を潰走させることに成功。勝家は、本拠地である北庄城まで後退せざるを得ませんでした。

秀吉は22日には勝家の与力大名である前田利家を越前府中城(現在の福井県越前市)で降伏させ、翌23日には北庄城を完全に包囲しました。

お市の最期

羽柴秀吉は北庄城の攻囲が完了すると時を分かたず総攻撃を開始。

このとき勝家は妻・お市に対して、3人の娘(茶々・初・江)たち共に城から退去するよう勧めます。しかし、お市は3人の娘を退去させることには同意するものの、自身が城から退去することは拒否。

お市は秀吉に対して直筆の書状でもって3人の娘たちを庇護してもらえるよう依頼し、その娘たちが城から退去する際には、北庄城の三の丸と思われる建物にまで姿を現して見送ったと言われています。

3人の娘たちが城から離れている間、両軍の戦闘は一時的に停止されたようですが、秀吉は4月24日午前3時ごろから攻撃を再開。

二の丸と本丸で激しい戦闘が繰り広げられ、やがて勝家は天守閣の最上階まで退き、押し寄せてくる秀吉軍の将兵たちに向かい「これからわれわれは自決する」と大声で宣言したようです。

上述した「お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像」では、柴田勝家とお市の最期についてこう説明しています。

これをうけてお市の方、それに勝家の妾一二人、三〇人余りの女房衆たちは、最期にあたって念仏を唱えはじめた。その光景は、柳の枝が風に揺れるように、桃の花に露がついているようなものであったという。これにはどれほど邪見(因果の道理を無視する考え)の人であっても、剣をとって殺しにくることはないだろうとして、勝家は一人一人を刺し殺し、そのうえで切腹の様子を見ろ、として、まず左脇に刀を指して、右の背骨まで切りつけ、返す刀で胸の下から臍の下まで切って、内臓を搔きだした。そして近臣の中村文荷斎に、首を打つよう命じ、文荷斎によって介錯されたという。そして文荷斎も、切腹し、信頼ある家臣八〇人余も、互いに刺し違えたり、自害したりして、ついに柴田家は滅亡したのであった。

黒田基樹. お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書) (p. 128). (Function). Kindle Edition.

こうしてお市は、1583(天正11)年4月24日の早朝、柴田勝家によって刺し殺される形で最期を迎え、その波乱に満ちた生涯を終えました。お市の享年は34才ぐらいであったでしょう。

お市の死後どうなる?その後の運命

落城直前に引き渡された3人の姫たち〜茶々・初・江

お市が、自分とともに3人の娘を死なせずに羽柴秀吉に引き渡した理由は、娘たちが柴田勝家と養子縁組をしていなかったことや、秀吉にとって信長は特別な存在で、その姪にあたる娘たちを決して粗略に扱わない確信があったためです。

3人の娘のうち、長女・茶々は秀吉の側室に迎えられ、次女・初は京極高次に、三女・は最初、豊臣秀勝のちに徳川秀忠に嫁いだことで知られています。

またそれまでの間も、秀吉が安土城・姫路城・大坂城と本拠地を移す間、行動を共にしており、彼女たちは「織田家の姫」として扱われていたと指摘されています。

茶々によって行われたお市の供養

またお市の死後の供養については、1589(天正17)年に、長女の茶々によって、七回忌の法要が行われていることが確認されています。

お市の七回忌の法要には、3人の娘の父である浅井長政の十七回忌の法要もなされました。

お市の史実とドラマの違い

なぜお市は織田を裏切った浅井長政と離婚しなかったのか?

現代の日本人が目にする戦国時代をテーマとしてドラマにおいて、お市は織田家との同盟を破棄した浅井長政と離婚しなかったことを個人的愛情や、夫婦における信頼関係の証として描かれることがあります。

こうした情景は「結婚は当事者間の個人の意思によるもの」とした現代的な価値観で見ると、非常に視聴者受けが良いシーンです。

しかし、戦国時代の史実に基づくと、こうした現代的結婚観はお市が浅井長政と離婚しなかった「本当の理由」を見誤らせます。

お市は単なる「妻」ではなく戦国の外交的存在だった

戦国時代の大名家やそれに準じる家格同士で行われる婚姻とは、個人の愛情に基づくものではなく、現代でいう外交によるものでした。

当時の婚姻には、大名間でトラブルが生じて「表の外交ルート」が途絶したときに、「裏のルート」で常に外交を続けると言う役割が与えられていました。

そうでないともし両家の間で戦争状態に突入すると、コミュニケーションが全く取れなくなり、互いが共倒れするまで戦が続く恐れがあります。泥沼化した戦争状態は、戦国大名の生き残り戦略としては正しくありません。

共倒れにならないよう、大名間の「裏の外交」を担当していたのが、お市のように他家に嫁いだ女性だったのです。

戦国大名家・国衆家同士の婚姻関係は、いわば国家と国家の外交関係にあたった。敵対関係になったからといって離婚したのでは、両国の外交ルートは全く存在しなくなってしまう。むしろ敵対関係になったからこそ、当主・家臣による表向きの外交ルートは断絶しても、婚姻関係による内向きの外交ルートとして機能することができるのである。

黒田基樹. お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書) (p. 79). (Function). Kindle Edition.

お市が柴田勝家と共に死を選んだ「本当の理由」

最終的にお市は柴田勝家と運命を共にすることになりますが、戦国時代の価値観からすると、お市に柴田勝家に対する愛情があったから死を共にしたという理由は極めて小さかったでしょう。

柴田勝家と羽柴秀吉との仲介をできなかった「失敗した外交官」として、その責任を取ると言う意味合いの方が、はるかに大きかったと考えられます。

戦国時代に活躍した織田信長を徳川家康を主人公としたドラマや小説などでは、お市は落城寸前の小谷城において浅井長政と運命を共にすると主張するも、長政から説得されて泣く泣く娘たちと一緒に小谷城を退去するというシーンが描かれます。

しかし、お市が浅井長政と自決することを主張する本当の理由も、夫婦生活を通じて長政との間にできた個人的な愛情と言うよりは、柴田勝家と運命を共にしたように、「織田と浅井の外交に失敗した責任を取るため」と考える方が妥当でしょう。

豊臣兄弟! お市の年表

お市の生年については1547(天文16)年とする説もあります。

その一方で「お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像」によると、お市の生年は1550(天文19)年である可能性が高いと指摘されています。

そのためここでは、お市の方の生年については、「柴田勝家公始末記」の所伝を採用しないで、結婚と子どもの出産年齢からの推定として、天文十九年頃の生まれの可能性が高い、とみておきたい。

黒田 基樹. お市の方の生涯 「天下一の美人」と娘たちの知られざる政治権力の実像 (朝日新書) (p. 40). (Function). Kindle Edition.

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西暦(和暦)年齢(数え)できごと
1550(天文19)年頃1才織田信秀の娘・織田信長の妹として誕生
1552(天文21)年3才父・信秀が死去
1567(永禄10)年18才浅井長政と政略結婚。織田家と浅井家の同盟が成立
1569(永禄12)年20才長女・茶々を出産
1570(元亀元)年4月21才金ヶ崎の退き口。浅井家と織田家の同盟が破棄される
1571(元亀2)年22才次女・初を出産
1573(天正元)年24才三女・江を出産
1573(天正元)年9月1日24才織田信長の総攻撃を受け小谷城が落城。夫・浅井長政は自害。お市と三人の娘は城を退去。叔父・織田信次の庇護を受け尾張守山城で居住
1574(天正2)年9月25才織田信次が戦死したことに伴い、兄・織田信長の庇護を受け岐阜城で居住
1582(天正10)年6月2日33才兄・織田信長が本能寺の変で敗死
1582(天正10)年6月2日33才清須会議により柴田勝家と結婚することが決定。また織田家の相続は信長・嫡孫の三法師がその後見人として信長三男の信孝が選ばれる 
1582(天正10)年9月11日33才織田信長の百日忌法要を京・妙心寺で主催する
1582(天正10)年10月15日33才羽柴秀吉とその養子・秀勝(於次丸)が信長の葬儀を京・大徳寺で執行する
1582(天正10)年10月28日33才秀吉が惟住(丹羽)長秀・池田恒興と計って織田家の当主を信長次男の信雄とすることを決定。
1582(天正10)年12月33才秀吉が長浜の柴田勝豊(勝家の甥)を攻略し岐阜城の信孝から三法師を引き取る
1583(天正11)年1月34才滝川一益が柴田勝家・織田信孝に加勢するために北伊勢で挙兵
1583(天正11)年3月34才柴田勝家が挙兵。越前から近江国北部の柳ヶ瀬まで進軍
1583(天正11)年4月34才岐阜で挙兵した信孝に対抗するため秀吉が美濃大柿城に着陣
1583(天正11)年4月21日34才勝家軍と秀吉軍が賤ヶ岳で交戦し秀吉が勝利(賤ヶ岳の戦い)
1583(天正11)年4月22日34才勝家の与力であった前田利家が秀吉に降伏
1583(天正11)年4月23日34才秀吉が北庄城を包囲
1583(天正11)年4月24日34才3人の娘を秀吉に引き渡した上でお市は柴田勝家によって刺殺されその勝家も切腹

豊臣兄弟!での描かれ方(予想・考察)

17話で浅井長政との別れ

NHK出版から販売されている、大河ドラマ「豊臣兄弟!」のガイドブックである「豊臣兄弟! 前編 (NHK大河ドラマ・ガイド)」の「あらすじ」によると、17話「小谷落城」において織田信長(小栗旬)から総攻撃を受けたお市の最初の夫・浅井長政(中島歩)が自害。

落城の際にお市は藤吉郎(池松壮亮)の手を通じて、3人の娘と共に城から退去する場面が描かれます。

25話前後で柴田勝家と自害

この記事を公開した時点で、「豊臣兄弟!」のあらすじは17話までしか公開されていません。

ただ史実の出来事を整理すると、織田信長が京・本能寺において明智光秀によって討たれることや、その後に発生する織田家の跡目争いの末に、ドラマの中で「賤ヶ岳の戦い」が描かれることは容易に想像できます。

これらのような織田家内部での抗争の末、25話前後ではお市の最期が描かれるのではないでしょうか。

後半で茶々が登場

「賤ヶ岳の戦い」の敗北でお市は最期を迎えたことにより、視聴者の注目を集める女性がお市から3人の娘たちに移るでしょう。

中でも特に注目を集める女性は、井上和さんが演じる茶々です。茶々はのちに淀君とも呼ばれ、豊臣秀吉との間に、1587(天正15)年には鶴松を、1593(文禄2)年にお拾(のちの豊臣秀頼)を出産したことで有名です。

「豊臣兄弟!」の主人公である豊臣秀長(仲野太賀)が1591(天正19)年1月に病死している史実を踏まえると、お市の長女である茶々は、ドラマが最終回に近づくにつれ、その存在感が増していくのではないでしょうか。

豊臣兄弟! 全話あらすじと最終回までのネタバレ

豊臣兄弟! 全話あらすじ

大河ドラマ「豊臣兄弟!」の全話あらすじや登場する人物たち・人間関係・相関図などについては下記の記事を参考にしてください。

豊臣兄弟! 最終回までのネタバレ

また最終回までのネタバレ・史実・結末などのまとめについては下記の記事が参考になるでしょう。

豊臣兄弟! お市 どうなる 関連記事と参考文献

豊臣兄弟! お市 どうなる 関連記事

お市の兄で、夫・浅井長政から見ると織田信長と、その最期に起きた「本能寺の変」については下記の記事が参考になるでしょう。

お市の最初の夫である浅井長政が、織田家の裏切りから小谷城で自害するまでの経過や理由については下記の記事が参考になるでしょう。

さらにお市が再婚した柴田勝家はなぜ「賤ヶ岳の戦い」で羽柴秀吉に敗北を喫し、形成を挽回することなく終わってしまったのでしょうか?

柴田勝家の敗因は、戦略や裏切りなどいくつもの原因が重なってしまったようです。「賤ヶ岳の戦い」に関する戦局や戦闘の推移は下記の記事が参考になるでしょう。

豊臣兄弟! お市 どうなる 参考文献

今回の記事は下記の7冊の書籍を参考文献としています。これらの本の著者のうち黒田基樹さんは大河ドラマ「豊臣兄弟!」の時代考証を担当されています。

NHK出版
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