豊臣秀次の名前について
豊臣秀次とは
豊臣秀次(とよとみひでつぐ)(1564~1595年)とは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で登場する豊臣秀吉(池松壮亮)・豊臣秀長(仲野太賀)兄弟の甥で、とも(宮澤エマ)にあたる瑞竜院殿日秀尼の長男です。
秀吉から1591(天正19)年12月28日に関白職と豊臣家の家督を譲られるも、秀吉の命令によって1595(文禄4)年7月15日に紀州の高野山において切腹を果たした人物としても知られています。
豊臣秀長の名前について
豊臣秀次の幼名
諸説によると豊臣秀次の幼名は、万丸(よろずまる)・治兵衛(じへえ)・次兵衛(じへえ)などと呼ばれたとされています。しかし「豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇」によると、豊臣秀次が名乗っていた幼名には確かな根拠はないと説明しています。
元服後の豊臣秀次の名前
また豊臣秀次は、「羽柴」という苗字を名乗る前に、宮部継潤と三好康長に養子へ出されていたこともあって時期によって名前が異なります。
| 西暦(和暦) | 年齢(数え) | 名前 |
|---|---|---|
| 1581(天正9)年5月21日 | 17才 | 宮部次兵衛尉吉継 (みやべじひょうえのじょうよしつぐ) |
| 1582(天正10)年10月22日 | 18才 | 三好孫七郎信吉 (みよしまごしちろうのぶよし) |
| 1584(天正12)年3月から6月ごろ | 21才 | 羽柴秀次 (はしばひでつぐ) |
一般的によく知られている「豊臣秀次」という名前は、叔父の豊臣秀吉が1586(天正14)年に朝廷の臣下であることを示す「豊臣」という氏姓を賜ったのちにできた名前となります。
豊臣秀次の出自と家族
豊臣秀次の出自
豊臣秀次の父は三好吉房です。もともとは「弥助」という名前で、尾張国において鷹匠配下の綱差(つなさし)もしくは馬貸しをしていたと考えられています。
また豊臣秀次の母は、豊臣秀吉・秀長兄弟の姉である瑞竜院殿日秀尼で、尾張国中村で百姓をしていたと考えられます。
つまり豊臣秀次の生まれは、叔父の秀吉・秀長と同じく武家ではありませんでした。
豊臣秀次の家族
三好吉房と瑞竜院殿日秀尼の子供としては、長男・秀次の他に次男・豊臣秀勝と三男・豊臣秀保がいました。ただし三男の秀保については、誕生した年が瑞竜院殿日秀尼の46才になる年であることから、養子の可能性が高いと指摘されています。
また豊臣秀次には正室・側室を含めて31人の女性の妻がおり、その側室らの間に5人の子供がいました。秀次の妻子については以下の記事で詳細を確認することができます。
1590(天正18)年までの豊臣秀次の動向
宮部継潤・三好康長の養子に
豊臣秀次は1571(元亀2)年ごろから1584(天正12)6月ごろまで、宮部継潤と三好康長の養子縁組をしていました。そのためこの間は「羽柴」ではない全く別の名前(「宮部次兵衛尉吉継」と「三好孫七郎信吉」)を名乗っています。
秀次が他家の養子に出ていた理由は、羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)の政治的な都合によるものです。秀吉・寧々夫妻には実子がいなかったため、甥の秀次が代わりに養子へ出ていたと考えられています。
秀吉の政治的な勢力が大きくなって宮部継潤にも三好康長にも気を使う必要がなくなり、秀次が羽柴家に戻ってきたのは1584(天正12)年3月から6月ごろのことでした。
豊臣一門衆大名のNo.2に
秀次が羽柴家の人間として戻ったのちは、名実ともに秀吉の弟である秀長に次ぐ地位を占めるようになります。
豊臣一門衆の大名として秀長の領地高は73万石(大和国・紀伊国・和泉国)であるのに対して、秀次の領地高は43万石(近江国八幡山)。また公家としての官位は秀長は従二位大納言であるのに対して、秀次の官位は従三位権中納言(1587年8月時点)。
「天下人」となった豊臣秀吉を支える一門衆として、豊臣秀次は豊臣秀長に次ぐNo.2の人物と見られていました。
1591(天正19)年以降の豊臣秀次の動向
秀長と鶴松の死後に関白に任官
豊臣政権でNo.2の地位にあった豊臣秀次の転機となった年が1591(天正19)年です。
同年1月には豊臣政権でNo.1の地位にあった叔父・秀長が病死。さらに8月には秀吉と側室・茶々(淀君)の間にできた第一子の鶴松も亡くなります。
秀吉は豊臣家の家督と関白を継ぐ人間が甥の秀次しかいないと諦めたか、12月28日には豊臣秀次は内大臣として関白の宣下を受け、豊臣家の氏長者(うじのちょうじゃ)を秀吉から譲られます。
高野山で切腹 妻子ら39人が処刑される
ところが1593(文禄2)年8月には茶々は秀吉の第二子・お拾(のちの豊臣秀頼)を出産。
このため秀次は秀吉から疎んじられるようになり、1595(文禄4)年7月には高野山追放を命じられ切腹することになります(「豊臣秀次切腹事件」)。
これまでの通説では秀次には秀吉に対する叛意があり、そのために成敗されたと言われていますが、現在は必ずしもそうではないという説が有力です。
ただ秀次が切腹したのちに正室・一の台が謀反を疑われる行動をとってしまい、そのことがもとで秀次の妻子ら39人が京・三条河原で処刑されることになります。
豊臣秀次 関連記事と参考文献
豊臣秀次 関連記事
今回の記事で言及した豊臣秀次に関する話題(養子に出されていたこと・領地・関白任官・切腹事件)などについては下記の記事でも言及しています。合わせて参考にしてください。
- 豊臣秀次 養子 養父は宮部継潤と三好康長 豊臣秀吉の養子ではない
- 豊臣秀次の領地 近江国八幡山43万石から尾張一国57万石に
- 豊臣秀長 豊臣秀次の関係 叔父と甥 豊臣大名のNo.1とNo.2
- 豊臣秀次 事件 豊臣秀次はなぜ切腹したのか?その理由について
豊臣秀次 参考文献
今回の記事は以下の書籍を参考文献としています。これらの著作の著者のうち、黒田基樹さんは、2026年のNHK大河ドラマ「豊臣兄弟!」で時代考証を担当されています。
- 黒田基樹 羽柴秀長とその家臣たち 秀吉兄弟の天下一統を支えた18人 角川選書
- 黒田基樹 羽柴秀吉とその一族 秀吉の出自から秀長の家族まで (角川選書)
- 黒田基樹(編著) 羽柴秀吉一門 (シリーズ・織豊大名の研究) 戎光祥出版
- 小和田哲男 豊臣秀次 「殺生関白」の悲劇 (PHP新書)
- 聚楽物語 3巻 [1] (国立図書館コレクション) Kindle版
